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プロローグ

「あれ?」


 仕事帰りにだらだらと歩いていた瑠依は、すれ違いざまにほんの一瞬だけ腕に触れた手とその声に振り返った。

 たっぷり数秒見つめ合う。


 ――よし。知らない人だ。


「ちょっと待てぃ!」


 ふたたび歩きだした瑠依を呼び止め、掴まれる腕。新種のナンパだろうか。いや、おそらくなにかの勧誘だろう。

 いずれにしても私には用はない、と結論付けた瑠依は軽く非難の眼差しを向け、踵を返す。


「ルイ様……」


 ぽつり呟かれた声に振り返り、今度こそ攻撃的な視線を送る。


「どちらさま?」

「やっぱり! あんた、ルイ様だろ!」

「……なんなのその恥ずかしくて気持ち悪い呼び方は」


 その昔、瑠依は付き合っていた男の友人たちから“ルイ様”と呼ばれていた。

 ――ということは目の前のコイツはソレの一味か。

 うんざりした表情を隠しもせずため息をつく瑠依に、声をかけた男は気づきもせず、人懐っこい笑みを浮かべた。


「いやー懐かしいな! あいつ、元気? バカヒロ」

「悪いんだけど私、あんたが誰なのかサッパリ思い出せない」

「うんうん。さすがルイ様だな。歳食っても口は変わんねー!」


 ぐっと拳を握りしめた説明はいるまい。

 言っておきますが、と瑠依は思う。

 私が選んだ男はたしかに馬鹿だけど、他人様にバカヒロ呼ばわりされる覚えはありません。


「ねえ、まだあいつと付き合ってんの? それともやっぱりもう破局した? っつーかルイ様その指輪、結婚したのかよ!!!」

「…………」

「あいつ、ルイ様が結婚したなんて聞いたら泣くだろうなー。そうじゃなくても日本たつとき未練タラタラでさー。見送りに行った俺ら、あいつのこと不憫でふびんでもらい泣きしたんだよなー」


 面倒くさそうに受け流していた瑠依の耳がぴくりと反応した。じわじわと込み上げてくるのは懐かしい痛みと意味深な笑い。先を促したいと急き立てる気持ちをどうにか押さえつけながら自然に弧を描いた唇を開く。


「悪いけど……名前をおしえてくれないかな。本当に思い出せないの」

「あー悪いわるい。篠原だよ、覚えてない?」

「あー……篠原くんね。うん、覚えてない。でもなにかの縁だから、うちに来る? いろいろ積もる話もあることだし」

「え?」


 篠原と名乗った男に対し、瑠依はそれがかつての級友だということをまだ思い出せずにいる。それがどれほど失礼なことかわかっていながらも、彼女にとってソレはたいした問題ではなかった。自分のことをよく知っているふうで、バカヒロを知っている人間ならばそれで十分だ。ものすごく驚いた顔で瑠依を見下ろしている篠原に、満面の笑みを向ける。

 篠原は笑顔を凍らせ、一歩後退した。


 当然だろう。名乗ったというのに一瞬の考えも巡らせず『覚えてない』とバッサリ切り捨てておきながら、なにかの縁とはどんな縁だ。しかも明らかに円滑な人間関係を築こうとする意志が見られないというのに家に来ないかなんて、それこそ勧誘かなにかだと警戒然るべきことだ。けれど――。


 そんな好奇心を駆り立てる話を小耳にはさんでしまった瑠依が、逃がすわけがない。

 今日は久しぶりに楽しい夜を過ごせそうだな、と悪魔のような笑みを浮かべた瑠依は、怯えた表情を浮かべる篠原の腕をがっしり掴み、愛する夫が待つマンションへなかば引きずるようにして連れていった。


 瑠依が篠原の存在を思い出したのは、マンションに到着するほんの数分前だった。

 篠原洋介は、高校時代のクラスメートで、当時付き合っていた彼氏である進藤崇宏の親友兼世話係でもあった。そこまで思い出すと、青春と呼ばれる時代のことが走馬灯のように脳内を駆け回る。


 怯えた表情で瑠依のあとに続きエレベーターに乗り込んだ篠原は、なんの変哲もないその箱の中へ落ち着きなく視線を這わせた。


「な、なあ……ルイ様って結婚してるんだよね? その指輪って、そういうことだよな?」

「うん、一応ね。大丈夫。篠原くんを連れ込んだくらいで怒るような器の小さい男じゃないから」

「そういう問題か!?」

「そんなことより、そのルイ様っての、やめてくれる」

「いや、なんかその……慣れで」

「まあいいわ」


 瑠依の旧姓は秋葉だが、今の姓は違う。けれどそれは今知らせるときではない。これから起こるであろう騒ぎを想像し、瑠依はしなやかに微笑んでエレベーターを降りた。

 がちゃりとキーを回し、ドアを開けると、愛する夫は瑠依のためにごはんを用意しているらしく、玄関には現れなかった。そのかわり、おいしそうな香りが出迎えた。


「ただいまー」

「おかえり! 今、油!」

「はいはーい。着替えてからそっち行くー。さぁ、どうぞ」

「……お邪魔します……」

「リビング、そっちのドアね。先に行っててー。名乗りさえすれば、包丁は飛んでこないと思うから」


 にっこりと微笑みかけ、瑠依は洗面所で手を洗いながら、おそるおそる廊下を進みリビングへと向かう篠原の後ろ姿をチェックする。


 人ごみの中で私に“ルイ様”なんて恥ずかしい呼び方をしたおしおきですよ。

 ガラガラとうがいをしていた瑠依の耳に、『崇宏!?』の声と『洋介!?』の声が届いた。鏡に映る瑠依は爆笑している。

 旧姓、秋葉瑠依の夫は、進藤崇宏。

 篠原洋介が『バカヒロ』と称した男――つまり、彼にとっては懐かしき親友であり幾度となく世話を焼いてやっていた男である。


「ちょっとルイちゃん!!! いったいどういうことなのさっ!?」


 部屋着に着替えてリビングに入るなり、愛する夫――進藤崇宏は瑠依の両腕をがっしりと掴んで、今にも泣きそうな顔をしていた。


 この半泣きで縋りつく情けない男の崇宏と瑠依は、高校時代の2年間と大学時代の3年間、計5年の間、コイビトだった。けれど大学も残り1年というタイミングで、別れた。というか、捨てられた。


 その後、6年間。瑠依は自分を捨てたその男のことが忘れられず、いや……ある種、呪いのようなものを胸に秘めて生きていたわけだが、彼はある日突然帰ってきた。

『コンビニ行ってきたよ』と同じ口調で、能天気な顔をして。

 それから紆余曲折があり、めでたくゴールインしたのだった。


「ルイ!?」


 もう、本格的に泣きそうな顔で瑠依を揺さぶった崇宏を、あえてきょとんと、しらばっくれた表情で見上げる。


「んー? 街で声かけられて。ずいぶん久しぶりに会ったし懐かしいから連れてきたの。ダメだった?」

「洋介……おまえ、俺のルイちゃんをナンパするとはいい度胸だな」


 腹の底から絞り出されたようなドスのきいた声。

 崇宏が怒ったくらいで怖くもなんともないだろうに、篠原は怯えた顔で慌てて否定した。

 それにも深いわけがあることを瑠依はまだ知らない。


「い、いや、違うって! すれ違ったとき、なんとなくルイ様に似てるなと思って思わず声かけただけだって!」

「おまえがルイちゃんの名前を呼ぶな」


 どうどう。

 噛みつきそうな勢いの崇宏を抱きとめて、背中をぽんぽんと叩く。威嚇はあっけなく納まったが、まだ納得のいかない崇宏はきゅうっと瑠依の身体を抱きしめる。


「ルイちゃん、どうして俺がいるのにお持ち帰りなんかしたの!?」

「いや、だから懐かしいだろうなーと思って。タカヒロのこと心配してくれていたみたいだから。っていうか、放して。いい歳してバカップルみたいで気持ち悪い」

「気持ち悪いっ!? なんでっ!?」


 悲鳴のような声が鼓膜を突き刺し、思わず顔が歪む。

 篠原への嫌がらせと、崇宏への仕返しのつもりで連れてきたけれど、反応が思っていたのと違ってイマイチおもしろくなかった。

 瑠依はしぶしぶ崇宏を宥め、篠原をダイニングテーブルへ促して座らせる。よしよし、と崇宏の背中を撫でて、ぽんっとひとつ叩いた。


「よし、じゃあまず食べようか! 積もる話もあることだし!」


 瑠依を捨てた崇宏が、あのときなにを思っていたのか。なにも言わずに瑠依の前から消えた崇宏が、あのあとなにをしていたのか。あれからもう干支がひとまわりしようとしている今だからこそ、知りたい。

 意地悪な好奇心、半分。


 あとの半分は、思い出すだけで胸が張り裂けそうなほど切ない記憶。

 篠原へしぶしぶ料理とビールを振る舞う崇宏を眺めながら、瑠依は懐かしくも、狂いそうなほど苦しくてせつなかったあの日に思いを馳せた。


 大学3年の夏、たなばた――。

 毎年たなばたの夜は、河川敷で天の川を撮っていた崇宏の隣にいたはずなのに。

 あの日は、ひとりぼっちで河川敷にいた。写真バカの崇宏が残した瑠依の写真を握りしめて。


 今だから、『殴ってやりたい』と言ってやれる記憶。だけどあのころは違った。

 崇宏がすべてだった、なんて、クサイ青春どころじゃない。

――私には本当に、タカヒロがすべてだった。


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