宿敵の声に癒やされていました――赤面の断罪官と蒼白の無罪練成師
あがり症の物語。
余談ですが、本作の制作途中の仮題は『断罪エンジン』でした。
法廷に立つたび、私は死にたくなる──でも観客は大喜びだ。
王都の中央裁判所に、本日もまた多くの人々が詰めかけていた。
石造りの荘厳な広間に響くのは、裁判の厳粛な空気というより、むしろ見世物を待つ観客たちの熱気に近いざわめきだ。
彼らの視線は法廷の一点に集中している。
被告席に座るでっぷりと肥えた男。ファット男爵。
彼はメイドの少女の弱みを握り、慰み者にした罪で裁きを受けることになっていた。手錠をはめられた太い手首が彼の罪を雄弁に物語る。
その男がまるで親の仇であるかのように検察官席の女性を睨みつけていた。
対する女性はその憎悪に満ちた視線を受けてもなお、涼しい顔で真正面からそれを受け止める。
通称『断罪官』
王都でその名を知らぬ者はいない若き検察官ナーブ。
彼女が法廷に立つとあればこれだけの傍聴人が集まるのも当然だった。人々はこれから始まる彼女の断罪劇を今か今かと待ち望んでいるのだ。
やがて白髪の裁判官が重々しく口を開いた。
「それでは検察官。本事件に関する主張を」
その声が響いた瞬間、ナーブの顔にみるみるうちに朱が差していく。
頬は燃えるように赤く染まり、その瞳は尋常ではないほどの光を宿してきらきらと輝き始めた。
傍聴席の誰かがごくりと息をのむ。
(始まった……!)
誰もがそう思った。
世にはびこる悪を根絶やしにせんとする彼女の正義の血が今まさに沸騰しているのだ、と。
「──被告、ファット男爵!」
凛とした、しかしどこか熱に浮かされたような声が法廷に響き渡る。
「被告はか弱きメイドの心と体を弄び同意のないまま性交渉を強いるという、まさに獣のごとき所業を行ったのです! もはや人にあらず! 私は人の道を踏み外した被告の行いに対し禁固刑十年を求刑いたします!」
高らかな宣言に被告であるファット男爵が顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「なっ獣のごときとは誰に向かって言っているこの小娘が! あれは合意の上だ!」
「黙れ、人の皮を被った野獣よ! 枷をつけられた貴様は貴族ではない! ただ一人の人間としてその罪を裁かれるがいい!」
ナーブが雷のような声で一喝すると、あれほど威勢の良かった男爵がびくりと肩を震わせて怯んだ。
その隙を彼女が見逃すはずがない。
「貴様が被害者に送りつけたとされる手紙がここにあります! 『君を心から愛している』だと? どの口がそれを言うか!」
ナーブが証拠品の手紙を突きつける。
「それは恋人同士の愛の言葉だろうが!」
「ほう? では手紙の追伸に書かれた『このことを口外すれば田舎のお前の家族がどうなるか分かっているな』という一文も甘い愛の囁きだとでも?」
「ぐっ……!」
「さらにメイドの私室から発見されたこの破れたドレス! これは貴様が力づくで引き裂いたものだと彼女は涙ながらに証言しています! これも愛の行為だとでも言うおつもりですか!?」
「それは彼女の方から誘ってきたから……!」
「往生際の悪いにも程がある! その醜く歪んだ欲望をいたいけな少女に擦り付けるとは、汚れた唇を永久に閉ざすがいい!」
畳みかけるようなナーブの言葉に男爵は完全に沈黙した。
もはや反論の言葉すら見つからないらしい。
ナーブは、真っ赤な顔のまま、天に掲げるように高らかに宣言した。
「──以上よりファット男爵の罪は明白! 禁固刑十年が妥当と考えます!」
その言葉が終わると同時に傍聴席から割れんばかりの拍手が巻き起こった。
被害者のメイドはその場で泣き崩れている。
そしてファット男爵はがっくりと膝をつき、この世の終わりとばかりに絶望の表情を浮かべていた。
断罪官ナーブはなおも顔を赤く染め、その潤んだ瞳で被告を睨みつけている。
しかし、口元にはわずかな微笑が携えられている。
ああ、きっと彼女は、また一つこの世から悪を裁くことができた達成感に打ち震えているのだろう。
傍聴人の誰もがそう確信していた。
判決は求刑通り禁固刑十年。
閉廷が宣言されるとナーブは喜びの声を上げるでもなく、傍聴席からの万雷の拍手を背に受けながら静かに法廷を後にしていく。
今日もまた、断罪官ナーブは悪を討ったのだ。
◇
「いやだぁ、もう検察官なんて辞めたいよおおおぉぉぉっ!!」
ばたんと執務室の扉を閉めた途端、私は自分の机に突っ伏して泣き叫んだ。
顔が熱い。
心臓がまだバクバク言っている。
手足はぶるぶると震えたままだ。
ああ、もう本当に無理!
なんで私はあんな場所にいなくちゃいけないの!
「おやナーブ君。今日も見事な断罪っぷりだったそうじゃないか」
のっそりと現れた上司の老検察官が呆れたような、それでいて面白がっているような声で私に話しかける。
「見事なんかじゃありません! もう嫌なんです! 辞めさせてください!」
「そう言うな。君の断罪劇は今や王都の名物だ。君のおかげで検察への寄付も増えておるのだぞ」
「そんなもの、どうでもいいんです!」
ぽろぽろと涙をこぼす私に、上司はやれやれと肩をすくめた。
「気持ちは分かるがね。しかし君は人気者になってしまったからなあ。今さらこれといった理由もなく『辞めます』と言ったところで、方々から待ったがかかるだろうよ」
「そん……な……」
上司の言葉は、私に絶望を突きつけるには十分すぎた。
ああ、どうしてこうなってしまったんだろう。
何を隠そう、私は極度の人見知りなのだ。
大勢の前に立つだけで緊張で頭が真っ白になって、何を話せばいいのか分からなくなってしまう。
初めて法廷に立った日もそうだった。
あまりの緊張と混乱で顔は真っ赤になり、心臓は張り裂けそうで、目の前がちかちかして……。
パニックになった私は準備していた冷静な追及の言葉ではなく、咄嗟に思いついた罵詈雑言を全力で投げつけてしまったのだ。
それがまずかった。
その私の姿がなぜか――
『悪を憎むあまり、正義の怒りで我を忘れ、猛然と被告を断罪する過激な検察官』
というとんでもない形で世間に受け取られてしまったのだ。
それ以来、私は『断罪官』などという不名誉極まりないあだ名で呼ばれ、皮肉なことに大人気の検察官になってしまった。
今日もそうだった。
今日こそは落ち着いて、冷静に、理路整然と男爵の罪を暴こうと、あれほど心に誓っていたのに。
裁判官に「検察官」と呼ばれた瞬間、ぶわっと血がのぼってきて、頭の中が真っ白になって……
気づけば、また口から罵倒の言葉が次々と飛び出していた。
そして、傍聴席は拍手喝采。
――ああもう、悪夢だ!
ていうかなんで裁判官は止めないの!?
普通あんなに検察官が被告を罵倒してたら「粛静に!」とか言って止めるでしょ!
むしろちょっと楽しそうな顔してこっちを見てた気がするんだけど!
そういうわけで、今日も私は身も心もずたずたになりながらなんとか法廷に立ちきったのだった。
デスクでさめざめと泣く私に、上司の同情のかけらもない声が追い打ちをかけるように降り注ぐのであった。
◇ ◇
王都の喧騒から少し離れた、質素な共同住宅の一室。
それが私の今の住まいだ。
部屋に入ると、なだれ込むようにソファへ身を投げ出した。
「はぁ……」
誰に聞かせるでもない、深いため息がこぼれ落ちる。
瞼を閉じれば今も鮮明に思い出せる。
憎悪に満ちた被告の顔。
好奇の光を宿した傍聴人たちの無数の瞳。
そして、パニックになった私が我を忘れて罵詈雑言を叫ぶ姿。
思い出すだけでまた顔に熱が集まってくる。
もう本当に嫌だ。
そんな私にもほんの少しだけ、身も心もずたずたな毎日を乗り切るための癒やしの時間があった。
水晶にそっと魔力を流し込むと淡い光が灯る。
テレパシー魔法を利用した音声通信サービス。
先日、見かねた上司が「気晴らしにでも使え」と紹介してくれた『声だけで相談できる法律相談窓口』だ。
検察庁からサービス料が支払われていると聞く。まあ福利厚生というやつなのだろう。
意識を集中させると、落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
『はい。もしもし……』
いつもの担当官の男性だ。
その声を聞いただけで、ささくれ立っていた心が少しだけ穏やかになるのを感じる。
「もしもし。……あの、いつものことながらあまり法律とは関係ないのですが、今日も仕事で嫌なことがあって……」
我ながら情けない声だと思う。
法廷での威勢のいい私を知る者が聞いたら、腰を抜かすに違いない。
『ふふ。あなたの相談はいつも法律相談と関係がありませんね』
電話の向こうで彼が小さく笑う気配がした。
その声には呆れや軽蔑の色は少しも含まれていない。
「そう言わずに聞いてくださいよ。……守秘義務があるのであまり詳しいことをお伝えすることはできないんですけど……」
そう前置きをして、私はぽつりぽつりと話し始めた。
「今日もたくさんの人たちから無遠慮な視線を浴びながら、話をしなければならなかったんです……」
期待に満ちたあの視線に晒されるだけで、心臓が握りつぶされそうになる。
「私が恥ずかしくて絶望しながらお話しするのに、みんなが熱狂するんです。まるで面白い見世物でも見るみたいに……」
『……』
「耐えられなくて私はもうパニックになって叫ぶんですけど、それを聞いてみんなが拍手するんです……! おかしいでしょう!?」
自分でも、何を言っているのか分からなくなってくる。
支離滅裂だ。こんな説明で伝わるはずがない。
それでも私は誰かにこの気持ちを吐き出さずにはいられなかった。
『毎回聞くたびに不思議に思うのですよね。どうしてそんな状況が起こるのか……』
しばらく黙って私の話を聞いていた彼が静かにそう言った。
その声は私の混乱を諭すように、どこまでも穏やかだった。
「私だって不思議です! 詳しく話せないのがもどかしい~!」
思わず叫ぶと、彼は何かを思案しているようだった。
『なんだろう。ピエロのようなお仕事ですかね? でもここに相談して来ているということは、法律関係のお仕事……なのですよね?』
ピエロ。
その単語を聞いて、私は思わず息を漏らして笑ってしまった。
「……ふふっ。ピエロですか。それは……意外と的を射てるかもしれませんね」
そうだ、私はピエロだ。
法廷という名の舞台の上で緊張と羞恥で真っ赤になった顔を晒す。
支離滅裂な言葉を叫んで観客を喜ばせる道化師。
そう考えれば、少しは納得がいくような気もする。
『ピエロにしても、皆さんを笑顔にできるなら立派な仕事です。あまり落ち込まないでください』。
「それでも私の心は擦り減っていくんですー!」
ソファにごろりと寝転がりながら、私は子供のように駄々をこねた。
そんな調子で、仕事で嫌なことがあるたびにこの窓口の相談員の人に愚痴を聞いてもらう。それが日課となっていた。
根暗と笑うなら笑うがいい。
私の心根は正義感に燃える『断罪官』などではない。
ただの人見知りの根暗女なのだ!
最初はこの担当官の人も、マニュアル通りに相槌を打つだけの淡々とした人なのだと思っていた。
けれど、何度か話すうちに彼が意外と冗談を言ったり、私の支離滅裂な愚痴に真剣に首を傾げてくれたりする楽しい人なのだと分かってきた。
いつしか私はこの人とお話しするために、このサービスを使うようになっていた。
『あなたとお話していると、いつも面白い話が聞けて興味深いですね』
「面白いですか……? 私にとっては悪夢でしかないんですけど……」
『失礼。ですが本当に。……この時間に繋げてもらえれば大体私が出ますので。いつでも声をかけてください』
営業トークだ。
きっと、マニュアルにそう書いてあるのだろう。
分かっている。分かってはいるけれど、それでも彼のその言葉がどうしようもなく嬉しかった。
「……また、愚痴を聞いてくれますか?」
おずおずと尋ねる私に、彼は迷いのない声で答えてくれた。
『はい、喜んで』
その一言で心に溜まっていた黒い澱のようなものがすうっと溶けていくのを感じた。
こうして、また明日も法廷に立つ勇気をほんの少しだけもらうのだ。
嫌なことがあった日は彼との会話で心を癒やす。
それが断罪官ナーブの誰にも言えない秘密の日課となっていた。
◇ ◇ ◇
そんなある日、書類を片付けているとひょっこりと上司が顔を出した。
「やあナーブ君。精が出るな」
「お疲れ様です。……何か御用でしょうか」
「うむ。君の次の法廷なんだがね、相手は『無罪練成師』のバースに決まった」
無罪練成師……?
私は聞き慣れない二つ名に首を傾げる。
「僕の同期が開いた弁護人事務所で働く若者らしいのだが、これがとんでもない切れ者でな。どんな絶望的な裁判でも『無罪』を勝ち取ってしまうことから、そう呼ばれているらしい」
……なんだろう。そのすごく強そうな二つ名。
『断罪官』などと呼ばれ、法廷の熱気にパニックを起こし喚き散らすだけの私とは大違いだ。
きっと冷静沈着で、理路整然と相手を追い詰めていく、素晴らしい弁護人に違いない。
「なんていうか、勝ち目がなさそうですね……」
思わず本音が漏れてしまう。
すっかり落ち込んでしまった私を見て、上司が励ますように肩を叩いた。
「まあそう言うな。君も検察が誇る優秀な人材だ。きっといい勝負になるだろう」
優秀、という言葉の響きが耳に痛い。
法廷に立つたびにパニックに陥る人間を、優秀と呼んでいいはずがないのに。
「彼が直近で行う法廷だが、一緒に行って見てみない? 敵を知れば百戦危うからず、というだろう?」
そう言って誘ってきた上司に渋々ながらも頷いた。
確かに事前に相手がどんな人物か知っておくのは悪くない。
せめて心の準備くらいはしておきたい。
当日。
法廷の傍聴席に座ると、もはや法廷に来るだけで少しドキドキしてくる。
条件反射のようなものだ。
この荘厳な空間が私にとってはトラウマの巣窟である。
「今回の事件は強盗事件らしい。目撃者が多数いるそうだ」
上司が小声で教えてくれる。
「……それを無罪にするなんて、不可能なのでは?」
「だからこその『無罪練成師』なのだよ」
上司の言葉に、私は息を呑んだ。
不可能を可能にする。
それが彼の異名の由来なのだろうか。
やがて、被告が連れてこられた。
そして——弁護人席に、一人の男性が座った。
年は私と同じくらいだろうか。
落ち着いた雰囲気を纏った、端正な顔立ちの男性だった。
あれが『無罪練成師』バース……。
裁判が始まった。
裁判官が弁護人の主張を聞く。
「それでは弁護人。主張を」
その瞬間、私は信じられない光景を目にした。
弁護人席に座るバースという男の顔が、見る見るうちに青白く染まっていくのだ。
「えっ……あの人なんだか顔が真っ青になってしまいましたよ!? 大丈夫なんでしょうか!?」
思わず小声で隣の上司に尋ねると、彼は興奮したように囁いた。
「出たな。噂の『氷魔法』だ……!」
氷魔法……? どういうこと?
「彼は体中の血液を巧みに操り、ああやって顔を青く染め上げるんだ。そうすることで強制的に頭を冷却し、自身を極限の冷静状態に置く」
そんなことができるの?
なんというか、弁護人と言うよりはびっくり人間では……?
「頭を冴えわたらせるための、彼独自の秘技さ。すごい切れ者だろう」
私が彼の奇妙な秘技に困惑していると、バース氏はまるで台本でも読み上げるかのような抑揚のない声で主張を始めた。
「本件について被告の無罪を主張します」
その一言で傍聴席がざわめきに包まれる。
「馬鹿な、多数の目撃者がいるんだぞ! 無罪なんてことがあるか!」
検察官が怒鳴りつけるが、バース氏はまるでその声が聞こえないかのように無視して静かに言葉を続けた。
「まず、多数と言っても目撃者は五人。うち一人からこのような証言を得ています」
「『他の四人が言ったから、なんとなく自分も証言しなければならないと思った』と」
「な、なんだと!?」
検察官が狼狽えるが、バースは構わず続けた。
「そして、もう一人にはこの似顔絵を見せました」
バース氏はそう言って一枚の紙を広げる。
そこに描かれていたのは、被告とは似ても似つかない男の顔だった。
「すると『この男が犯人だったかもしれない』と証言が揺らぎました。凶器を持った強盗に対しは凶器そのものに意識が集中し、犯人の顔などの記憶が曖昧になる。『武器集中効果』によるものと思われます」
「そんな……」
「被告のみを見せて犯人だと証言させるべきではありませんでしたね。これは明らかに、調査の不備と言わざるを得ません」
「我々を馬鹿にしているのか!」
検察官の怒声も聞くに値しないとでも言うように淡々と、しかし確実に相手を追い詰めていく。
「残る三名。彼らの素性を調べました。一見して関係性が薄いように見えますが、兵役時代に同じ宿舎で生活していたことが分かりました。つまり、三人は顔なじみです」
周囲が再びざわつく。
「そして、三人のうちの一人には裏で犯罪組織と繋がりがあるという黒い噂があります。おそらく今回の事件の真犯人はその犯罪組織の人間でしょう」
「そ、そんな馬鹿な……」
「今回の事件調査並びに事情聴取について、重大な欠陥があったと断定します。事件の再調査を要求すると共に、本件における被告の無罪を主張します」
会場は騒然としていた。
もちろん私もその一人だ。
とんでもないものを見てしまった……。
そんな喧騒の中でも、バース氏はただ平然と青い顔のままそこに座っている。
まさに『無罪練成師』の名に恥じない風格だった。
次の日、新聞には強盗事件について真犯人らしき男が逮捕されたという記事が小さく載っていた。
彼は見事に無罪を勝ち取ったのだ。
「もう無理……」
その日の夜、自室のソファに転がりながら水晶に魔力を流し込んだ。
いつもの法律相談窓口だ。
『はい。もしもし……』
落ち着いた男性の声。それを聞いただけで少しだけ心が軽くなる。
「今度、とても恐ろしい人と討論をしなければならなくなったんです……」
私の声は震えていた。
「もう、不安で不安で、今にも吐きそうで……」
『元気を出してください』
電話の向こうから、いつもの彼の穏やかな声が聞こえてくる。
『実は私も……今度、少し恐ろしい人と対峙しなければならなくなったんです。お互い頑張りましょう』
彼の言葉に、私は少しだけ驚いた。
いつも冷静なこの人も怖いと思うことがあるんだ。
ああ、なんだろう。
少しだけ心が軽くなるのを感じる……。
『緊張したら、空から見ればみんな塵みたいなものだと思えばいいのです。そうすれば、少しは緊張も和らぐ気がしませんか?』
「ふふっ、面白いことを言いますね。私もそうしてみようかな……」
彼との会話で今にも押し潰されそうだった気持ちが、ふっと軽くなる。
なんだか当日も頑張れそうな気がしてきた。
◇ ◇ ◇ ◇
そして、運命の裁判当日がやってきた。
今回の被告は、違法な薬物を大量に所持していた男。
それも、巡回中の衛兵による職務質問で発覚した現行犯逮捕だ。
いくら『無罪練成師』の異名を持つバース氏でも無罪を勝ち取るのは不可能だろう。
そう頭では分かっていても、私の心臓は朝からずっと落ち着きなく脈打っている。
私は法廷へ向かう馬車の中で、相談窓口の彼が教えてくれた言葉を心の中で繰り返していた。
『緊張したら、空から見ればみんな塵みたいなものだと思えばいいのです』
空から見たらみんな塵、空から見たらみんな塵……。
ふふっ、やっぱり面白い人だ。
その言葉を思い出すだけで、少しだけ心が軽くなる気がした。
法廷に到着すると、そこは既に異様な熱気に包まれていた。
『断罪官』と『無罪練成師』の初対決。
傍聴席は満員御礼。立ち見まで出ている始末だ。
人々の好奇と期待に満ちた視線が私の肌をちりちりと焼く。
ああ、もう帰りたい。
やがて、白髪の裁判官が重々しく口を開いた。
「それでは弁護人。主張を」
その声が響いた瞬間、私は再びあの光景を目の当たりにする。
バース氏の顔が、見る見るうちに血の気を失い、青白く染まっていくのだ。
出た、噂の『氷魔法』……!
彼の異様な姿に私の緊張も最高潮に達する。
だめだ、落ち着け、私。あの言葉を思い出すんだ。
空から見たらみんな塵、空から見たらみんな塵……。
そう心の中で必死に繰り返していたからだろうか。
バース氏が立ち上がる直前、誰にも聞こえないほどの小さな声で何かを呟いたのが見えた。
その唇の動きがはっきりと読めてしまった。
『空から見たら、みんな塵……』
え……?
時が、止まった。
なんで?
なんで、あなたがその言葉を知っているの……?
私が脳の処理能力を超えた情報にフリーズしていると、バース氏は抑揚なく宣言した。
「本件について被告の無罪を主張します」
その声を聞いた瞬間、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
あ……。
この声……。
この落ち着いていて穏やかな声は……!
完全に、いつもの相談員さんじゃないか!
私は思わず、がたっと音を立てて席を立ってしまった。
なんで!? どうして、前回の傍聴席で気づかなかったんだ!
そんな、そんなことって……。
「あり得ない……」
私の口から無意識に言葉が漏れる。
すると、私の呟きに呼応するように、周囲の傍聴席からもざわざわと声が上がり始めた。
「そうだよな、あり得ないよな……」
「現行犯なんだろう? それを無罪だなんて……」
「さすがは無罪練成師、言うことが違うぜ……!」
ああ、違う!
皆さんが言っている「あり得ない」と私が言っている「あり得ない」は意味が全然違った。
バース氏が、あの相談員さん……?
じゃあ、私は今まで、これから法廷で戦う相手に、自分の情けない悩みを延々と聞かせていたってこと……?
ぶわっ、と全身の血が顔に集まってくるのを感じる。
熱い。恥ずかしい。死にたい。
私の顔は今、絶対に茹でダコみたいに真っ赤になっているに違いない。
私の混乱をよそに、バース氏は淡々と主張を続けた。
「確かに被告が違法薬物を所持してました。ですが、それが被告自身の持ち物ではなかったというのが我々の主張です」
私は、普段のパニック状態を通り越し、もはや思考停止に近い状態。
何か言わなければ。反論しなければ。
でも、相手はあの相談員さん……。
あんなに優しく私の愚痴を聞いてくれた人に、罵詈雑言なんて投げつけられるわけがない!
「被告は当日、なじみの酒場で酒を飲み、泥酔状態で帰宅する途中に逮捕されています。被告によれば酒場で二回ほど手洗いに立ったとのこと。我々は席を立った際に、薬物を鞄に入れられたと見ています」
ざわりと傍聴席が大きくどよめく。
ああ、もう無理。しゃべれない。
いつものように感情を爆発させて楽になることもできず、私はただ目を白黒させていた。
「さらに調査を進めたところ、被告が逮捕された当日に自宅付近で、過去にスリで逮捕歴のある男が目撃されていたという証言を得ました。その男に事情聴取を行ったところ、ある人物に頼まれてやったことだとすべてを供述しました」
バース氏はそこで一度言葉を切り、傍聴席をゆっくりと見渡した。
「その男に犯行を依頼した人物。それは私が弁護を担当した強盗事件の真犯人が所属していた犯罪組織の首魁、ドン・アベト」
その言葉と共に、彼が鋭い視線を向けた。
「そして、この裁判の傍聴人名簿にもその名前が確認できました」
がたっ、と大きな音がして一人の男が立ち上がった。
血相を変えた、見るからに悪人面の男がそこにいた。
「あのスリ屋、俺を売りやがったな!」
しまった、という顔で男が口を押さえるがもう遅い。
奴が真犯人!
その瞬間、行き場を失っていた私の混乱と羞恥とフラストレーションがついに臨界点を突破した。
すべての怒りの矛先がその男へと向かう。
「高みの見物とは、ずいぶんと良いご身分じゃないか!」
気づけば私はいつものように叫んでいた。
私の突然の怒声に、アベトと呼ばれた男がびくりと肩を震わせる。
すかさず、バース氏が冷静な声で追撃する。
「今回の事件の顛末を自身の目で見届け、我々を嘲笑うつもりだったのでしょう。……逆効果でしたね」
「陰で糸を引く卑怯者め! 自らの手を汚さず他人を利用するとは人として最も恥ずべき行為だ!」
私とバース氏の視線に射抜かれ、アベトの額に脂汗が浮かぶ。
「ち、違う! 実際に薬物を運んだのはあいつらで……!」
「法は時として実行犯よりも教唆犯を重く罰することがあります。今回の事件の被告は被害者と言える。罪に問われるのはあなた一人だけでしょう」
「人を人形のように操り、己の欲望を満たす卑劣な人形遣いよ! 今こそその操り糸を断ち切る時だ!」
「ご安心ください。あなたには弁護人を立てる権利があります。僕以外の優秀な弁護人を立てると良いでしょう」
二方向からの感情と論理の波状攻撃。
それに耐えきれず、ついにドン・アベトはその場にへなへなと膝をつき、絶望に顔を歪ませたのだった。
その日、王都の中央裁判所では、法廷にいた黒幕がその場で逮捕されるという、前代未聞の逮捕劇が繰り広げられた。
『ドン・アベト氏逮捕!』
『断罪官と無罪練成師、奇跡の協力プレイ!』
次の日の新聞には、こんな見出しがでかでかと躍ることになる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
事件が記事になった日の夜、私はいつもと全く違う気持ちで水晶に向き合った。
『はい。もしもし……』
聞こえてきたのは、聞き慣れた、そして今は正体を知ってしまった穏やかな声。
……なんて話しかけよう。
私が言葉に詰まっていると、彼が不思議そうに尋ねてきた。
『どうかされましたか?』
「……あなた、もしかして『無罪練成師』のバース氏だったりしますか?」
一瞬の沈黙。
『なっ! なぜ僕のことを!? どこからその情報が……!?』
「どうも。いつもお世話になっております。検察官のナーブと申します」
今度こそ、長い沈黙が流れた。
『ナーブ……まさかあの、『断罪官』の……!?』
「世間ではそう呼ばれているみたいですけど、実際は極度のあがり症で根暗な女なんです……」
『あがり症……? ……ああ、なるほど。混乱して話していると周りが熱狂する……そういうことだったのですね……』
彼の驚いたような声が、水晶を通してくぐもって聞こえる。
ああ、幻滅されたに違いない。
いつも偉そうに断罪している女が、裏ではこんな情けない愚痴をこぼしていたなんて。
「昨日は……ありがとうございました」
『いえ、こちらこそ。あなたのおかげでアベトを効率よく追い詰めることができました。……しかし、そうですか。あなたがいつも相談されていた……』
彼の声が少しだけ震えているように感じた。
『……実は』
「はい?」
『実は僕も、そうなんです……』
「え?」
どういうこと?
『僕も法廷に立つと極度に緊張してしまって……。血の気が引いて顔面が蒼白になってしまうんです。それを誰かが勝手に『氷魔法』だなんて言い出して……。本当は毎回死にそうな思いで立っているんです』
え……?
あの冷静沈着に見えた彼が、あがり症!?
『……』
「……」
気まずい、というのとは少し違う、不思議な沈黙が二人の間に流れる。
すると、彼が意を決したように、少しだけ上ずった声で言った。
『あなたの相談を聞いていると、不思議な人だなと思っていました。あなたと話すことで、僕は法廷に立つ勇気を、いつももらっていたんです。そして……僕と同じ境遇だと知って、さらに……惹かれています……』
「え……? ひ、惹かれて……?」
彼も、私との会話を楽しんでくれていた?
勇気をもらっていた?
『もし、よかったら……! 今度、法廷ではない場所で、実際にお会いしていただけないでしょうか!』
彼の必死な声が、私の心臓を直接掴んだかのように大きく跳ねさせた。
顔がトマトのように真っ赤に染まっていくのが自分でも分かる。
きっと水晶の奥にいる彼は、真っ青になっているに違いない。
赤と青のおかしなあがり症コンビ。
なんだか笑ってしまいそうだった。
後日、王都の新聞には、こんな見出しの記事が載ることになる。
『『断罪官』と『無罪練成師』のタッグ再び! 電撃結婚と共同法律事務所の開設を発表!』
そして、私たちが作った法律事務所の扉にはこんなプレートが掲げられている。
『ご相談は、まずは水晶通話で!』
今日も極度のあがり症を患った二人は、しかし、隣に立つ互いの存在を勇気に変えながら、共に法廷に立つのであった。
【ある酒場での会話】
「やあ、久しぶりじゃないか。君の弁護人事務所は順調かい?」
「おかげさまで。ただ、新しく入った若者がひどいあがり症でね。法廷に立つたび顔を真っ青にするものだから、見ていて少し不憫でね」
「ほう、奇遇だね。実はうちの新人検事も極度のあがり症なんだよ。彼女は逆に顔を真っ赤にして法廷に立って、終わった後はいつも机で泣いてるよ」
「……へえ。赤と青、か。まるで対だな。一度その二人を引き合わせてみるのはどう?」
「しかし、二人とも筋金入りの人見知りなんだろう? まともに話せるとは思えないけれど」
「水晶通話というのはどうだい? 例えば……『声だけで相談できる法律相談窓口』という架空の福利厚生サービスを立ち上げて、二人を繋いでみるんだ」
「はっはっは、それは面白いことを考える!いいね、ひとつ乗ってみよう!」




