花より港 ~それ、アニサキス大丈夫?~
こういう肩の力が抜けるような物語を作るのが好きです。
王国中が羨む婚約者――そう呼ばれるのは、悪い気分ではなかった。
私、公爵令嬢グレーティの婚約者は、第一王子エクセレン殿下。
私たちは社交界で「完璧なカップル」として知られていた。
エクセレン様は容姿端麗、剣術は王立アカデミー主席で政治的手腕も申し分ない。どこに出しても恥ずかしくない理想の王子様。
かたや私は――自分で言うのもなんだけれど――社交ダンスの達人として名高く、為政に関する造詣も深いと評価されている。マナーも完璧。容姿もそれなりに褒められる。
「なんてお似合いのお二人なのかしら」
「二人の周りだけ美しい花が咲き乱れているようだ」
聞こえてくる囁きはいつだって賞賛と羨望の色を帯びている。
私たちは完璧だった。
その事実に酔いしれていたのは否定できない。
だって、気持ちがいいではないか。誰もが私たちを理想の目で見つめ、未来を祝福してくれる。この国で最も輝かしい存在であるという自覚は、私の心をじんわりと満たしてくれていたのだ。
そう、あの日までは。
◇
事件が起きたのは王宮で開かれた夜会の最中だった。
私は控え室で身だしなみを整えていた。ドレスに髪型、微笑み。鏡の中の完璧な自分を確認する。
満足して部屋を出ようとした時――廊下からエクセレン様が友人男性と話しているのが聞こえた。
「いつもながら見事だな。グレーティ嬢との立ち居振る舞いは」
「やめてくれ。気を抜く暇もなくて本当に疲れる」
え?
「さすがのエクセレンもあれほどの完璧なご令嬢が相手では大変か?」
「ああ大変だとも。二人きりの時でさえまるで隙がない。完璧な婚約者を演じ続けるのは骨が折れる」
疲れる?
演じている?
私との時間が殿下にとって苦痛だと、そう言っているの?
私は静かにその場を離れた。足音を立てないように、完璧な淑女らしく優雅に。
でも心臓はバクバクで頭の中はぐちゃぐちゃだった。
夜会に戻った私はいつも通りに微笑み、ダンスを踊り、政治談議をこなした。エクセレン様もいつも通り、完璧な笑顔で私をエスコートしてくれた。
でも、私はその笑顔の裏に隠された疲労を感じ取ってしまう。
衝撃に打ちのめされながらも、私の頭の片隅で恐ろしい声が囁いた。
―――私も、同じではないか?
そうだ。私もエクセレン様の前で心から安らいだことなどあっただろうか。
政治の話をしている時、本当は退屈だと思っていた。
剣術の話を聞いている時、実は全然興味がなかった。
社交ダンスを踊っている時、足が痛くて早く座りたいと思っていた。
本当は――
社交界より部屋で恋愛小説を読んでいたい。
そう、恋愛小説だ。
私の本棚には大量の恋愛小説が隠してある。
表向きは「政治史」や「経済論」の背表紙だけど、中身は全部恋愛小説。
夜な夜な読みふけって、「きゃあ!」と悶えるのが私の唯一の楽しみなのだ!
でも、そんな姿をエクセレン様に見せたことは一度もない。
完璧な公爵令嬢は恋愛小説なんて読まない――そう思われているはずだ。
これから結婚する者同士、本当にそれでいいのだろうか?
お互いに偽りの自分を演じ続けて、幸せになれるのだろうか?
翌朝、私は決心した。
このままではいけない。
勇気を出して、本当の自分を見せよう。
それで婚約解消になったとしても――いや、それはそれで、お互いのためかもしれない。
そう思うと、少し気が楽になった。
その夜、私はエクセレン様を自室に招いた。
「エクセレン様」
私は深呼吸をして、覚悟を決めた。
「実はお話ししたいことがあります」
「なんだいグレーティ? 改まって」
私は震える唇を一度引き結び、勇気を振り絞って告げた。
「実は私、あなたの前で完璧な令嬢を演じるのに疲れました」
殿下の瞳が大きく見開かれる。
彼の動揺が手に取るようにわかったけれど、私はもう止まれなかった。
「本当の私は朝が苦手で侍女に叩き起こされるまで寝ているのが好きです」
一度言い始めたら、止まらなくなった。
「テーブルマナーなんて時々忘れて好きなものを好きなだけ食べたいのです。優雅な社交ダンスよりも部屋にこもってドキドキするような恋愛小説を読んでいる方がずっと好きなんです!」
全部吐き出したら、なんだかすっきりした。
同時に、恐ろしくなった。
エクセレン様はきっと幻滅するだろう。
完璧だと思っていた婚約者が、実はこんなだらしない女だったなんて。
やがて、その表情がゆっくりと変化していく。
驚きから困惑へ。そして、何かを決意したような真剣な顔つきへと。
「……そうか」
ぽつりと呟いた彼の声は、少し掠れていた。
「実は僕も君に隠していたことがあるんだ」
そう切り出した殿下は気まずそうに視線を彷徨わせた後、意を決したように私を見つめ返した。
「実は僕も、政治の話より釣りの話がしたくて」
「え?」
「剣の手入れよりも釣り竿の手入れが大好きなんだ!」
今度は私が驚く番だった。
「釣り?」
「そうだ釣りだ!海で竿を垂らして魚がかかるのを待つあの時間が何よりも好きなんだ!でも王子が釣りなんて下品な趣味を持っているなんて言えなくてずっと隠していたんだ!」
エクセレン様の顔がみるみる明るくなっていく。
「それに剣術も本当は苦手で。主席になったのはただ努力しただけで。本当は釣り竿を握っている方が何倍も楽しいんだ!」
釣り? あの完璧なエクセレン様が?
想像もつかない組み合わせに、私の頭は混乱する。
そんな私を見て、殿下は少しだけ困ったように笑った。その笑顔はいつもの完璧な王子のそれとは違う、どこか少年のような素朴な表情だった。
その顔を見て、私は衝動的に行動していた。
枕元に隠していた一冊の本を手に取り、殿下に差し出す。
「これを読んでみてくださいませんか?」
それは私が一番大好きな恋愛小説だった。
貧しいパン屋の娘と身分を隠した騎士との、障害だらけの恋物語。
「私が一番大切にしている本ですわ!」
殿下は戸惑いながらも、その本を受け取ってくれた。
◇ ◇
次の日の午後、私の部屋を訪ねてきたエクセレン様の姿を見て、私は自分の目を疑った。
彼の目元が、ほんのりと赤く腫れている。
「エクセレン様、そのお目は」
「グレーティ」
彼は私の手を取ると、昨日渡した本をそっと返してくれた。
「この本、とても面白かった……! 涙が止まらなくて……」
まさか、あの冷静沈着な殿下が、恋愛小説を読んで泣いてくださるなんて。
私は驚きと嬉しさに胸がいっぱいになった。
「気に入っていただけて嬉しいですわ」
そう言うと、殿下は照れくさそうに微笑んだ。
そして、ふと思い出したようにこう言ったのだ。
「明日は二人とも珍しく公務がないだろう? 僕の趣味にも付き合ってくれないか」
そうして翌日の早朝、王都の港に来た。
殿下はどこから用意したのか年季の入った釣り竿を二本、嬉しそうに抱えている。
貴族の令嬢が決して足を踏み入れないような、潮の香りと魚の匂いが入り混じる活気のある港。その光景に私は少しだけ気圧された。
「さあグレーティ。ここに座って」
殿下に促されるまま、粗末な木の桟橋に腰を下ろす。
ぎこちない手つきで竿を握る私に、殿下は隣で優しく釣り方を教えてくれた。その横顔はいつになく生き生きとしている。
しばらく他愛もない話をしながら、二人で静かに海を眺めていた。
すると突然、私の持っていた竿がぐぐっと大きくしなった。
「きゃあ!何ですの!?」
「引いてる!リールを巻くんだ!」
殿下に言われるがまま夢中でリールを巻く。
水面に現れたのは銀色に輝く大きな魚だった。
「釣れた!魚が釣れましたわ!」
私が桟橋の上でぴちぴちと跳ねる魚を見て歓声を上げると、周りで網の手入れをしていた漁師のおじさんたちがにこやかな顔で集まってきた。
「嬢ちゃんでかいのが釣れたな!」
「見事なもんじゃねえか!」
口々に褒められ、私は誇らしい気持ちで魚を高々と掲げて見せた。
あれ? なんだかすごく楽しい……!
完璧なマナーも優雅な立ち居振る舞いもここには必要ない。ただ釣れた魚を喜ぶだけで、みんなが笑顔になってくれる。
隣を見ると、エクセレン様が穏やかな、心からの笑顔で私を見つめていた。
その笑顔を見て、私も自然と笑みがこぼれた。
帰りの馬車の中、私たちは今日の釣果を自慢し合いながら、くすくすと笑い合っていた。
「それにしても、グレーティが勧めてくれた恋愛小説は本当に面白かったよ」
「嬉しいですわ。エクセレン様の釣りもとても素敵なご趣味ですのね。私もまた挑戦してみたいです」
お互いに今まで知らなかった相手の一面を知り、それを受け入れられた。
その事実に、私たちは何とも言えない解放感を覚えていた。
今までどれだけ窮屈な鎧を身にまとっていたのだろう。お互いに無理をしすぎていたのだ。
エクセレン様がその高揚感からか、ふと突拍子もないことを言い出した。
「グレーティ。せっかくだから僕たちの周りに対しても『完璧な婚約者同士』という殻を破ってみるのはどうだろう?」
「まあ……と、申しますと?」
「僕達らしい結婚式を計画するんだ。完璧じゃなくてもいい。僕たちが本当に心から楽しめるような、そんな式を」
その提案を聞いた瞬間、私の心は歓喜に打ち震えた。
完璧ではない私たちだけの結婚式。
それはなんて、なんて素敵な響きなのだろう!
私は満面の笑みで殿下に向き直った。
「それは素敵な案ですわね!!」
こうして、少しだけお互いの本当の姿を知った私たちは、二人で『自分達らしい結婚式』を企画することになったのであった。
◇ ◇ ◇
私たちの『完璧じゃない結婚式』計画は素晴らしい勢いで進んでいった。
完璧な計画書も決められた式次第もない。ただ、二人で顔を突き合わせては、ああでもないこうでもないと笑いながら、やりたいことを詰め込んでいく。
「披露宴はあの港でやりましょう! 釣った魚をその場で調理して振る舞うのです!」
「いい考えだ! 指輪の交換は……そうだ、一番大きな魚を釣った方が相手の指にはめるというのはどうだろう?」
「素敵ですわ!」
私たちの会話はいつだってそんな調子だった。
しかし、私たちの計画を耳にした周囲の反応は、それはもう凄まじいものだった。
「漁港で披露宴だなんて正気ですか!」
「グレーティ様!披露宴は王城のダンスフロアに国内外の来賓を招いて行うものです!」
「なんですか、その少女の夢みたいな演出は!? 王子たるもの威厳というものを……」
「破廉恥ではしたないです! 魚臭い結婚式など前代未聞!」
侍従長に私の侍女、果ては宮廷の文官たちまで誰もが血相を変えて私たちを諫める。
まるで私たちが揃って正気を失ったかのように。
けれど、私たちの決意は揺らがなかった。
殿下はきっぱりと言い放ったのだ。
「これは私とグレーティの結婚式だ。誰のためのものでもない。私たちのためのものなのだから」
その言葉に胸が熱くなるのを感じた。
私たちはもう、誰かの理想を演じるのはやめたのだ。
そして、結婚式当日。
王都中の貴族たちが眉をひそめながら集まったのは、絢爛豪華な大聖堂ではなく、潮の香りが立ち込める活気ある漁港だった。
私たちは純白のドレスと儀礼服ではなく、揃いの真新しい漁師の作業着で皆の前に姿を現した。
唖然とする招待客を前に、エクセレン様が高らかに宣言する。
「これより、結婚記念釣り大会を開催する!」
それが私たちの結婚披露宴の始まりの合図だった。
借り切った何艘もの漁船に乗り込み、貴族も漁師も関係なく皆で一斉に竿を垂らす。
指輪交換は宣言通り、一番大きなカジキマグロを釣り上げたエクセレン様が私の指にはめてくれた。
その場で揚げられたカジキマグロのフライは、熱々で最高に美味しかった。
他の人を置いてけぼりにした、自分たちのためだけの結婚式。
でも、こんなに心から笑ったのは生まれて初めてかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇
ところが、この前代未聞の結婚式の噂は、社交界で全く違う解釈をされて広まることとなる。
「さすがは完璧なお二人! 形式に囚われない斬新な演出!」
「漁師文化への敬意を示して庶民派のアピールさえ同時にこなすその計画性恐るべし!」
「殿下とグレーティ様の作業着姿も計算され尽くした見事な着こなし。あれぞ究極の美!」
なぜか、私たちのありのままの行動が、すべて『計算され尽くした完璧な演出』として賞賛され始めたのだ。
挙句の果てには、私たちの結婚式を模倣する貴族が続出。
「釣り婚」なるものが空前の大流行となり、王都中の漁船の予約が取れなくなる事態に。
作業着に宝石をびっしりと縫い付けた「高級漁師ドレス」なるものまで登場する始末。
そんな報告を侍従から受けながら、私たちは顔を見合わせた。
どうやら世間は私たちを「完璧な二人」というフィルターを通してしか見てくれないらしい。
それどころか、素を出すほど「計算された素朴さ」としてますます完璧さに磨きがかかってしまう。
ある夜、月明かりが差し込むバルコニー。
エクセレン様と二人でその話をしているうちに、どちらからともなく笑いがこみ上げてきた。
「私たちがただ好きなことをしただけなのに前よりも『完璧』扱いをされておりますわ」
「本当だな。僕たちが何をしても世間は見たいように解釈するらしい」
その言葉に、私はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
他人の視線を気にして完璧を演じてもありのままの自分を見せても、世間の評価は私たちにはどうすることもできないのだ。
大切なのはただ一つ。
「エクセレン様」
「なんだいグレーティ」
隣に立つ彼の顔を見上げる。
そこにはもう、完璧な王子様の貼り付けたような笑顔はなかった。
あるのは釣りの話をする時のように、生き生きとした少年のような私の大好きな笑顔。
大切なのはこの人の前で、そして私自身に対して嘘をつかないこと。
ただそれだけでいいのだ。
「これからもたくさん釣りをしましょうね。そして、恋愛小説も読んでください」
「もちろんだとも」
私たちは顔を見合わせて、また笑い合った。
こうして、かつて社交界の『完璧なカップル』と呼ばれた私たちは、少しだけ肩の力を抜いた、本当の意味での理想の夫婦になっていくのであった。
【結婚式の次の日の一幕】
穏やかな朝食の時間を過ごしていた私たちの元へ、侍従長が血相を変えて飛び込んできた。
「エクセレン殿下、大変でございます!」
「どうしたそんなに慌てて」
「昨日漁港で釣られたお魚ですが、専門家によりますとそのまま食すと寄生虫によりお身体を蝕む危険性が!」
「そうなの!?とってもたくさん食べてしまいましたわ!」
「グレーティ、あれはちゃんと焼くか揚げてあっただろう。さすがに生食は避けたよ」
「そうでございましたか………」
「君にそんな危険なものを食べさせるわけがないだろう?」
侍従長は心底ほっとしたようにその場にへたり込み、私は少しだけ頬を赤らめるのだった。
「でも、漁師の方々は獲れたてを生でいただくのが一番だとおっしゃっていましたわ。一度味わってみたいものです」
「そんなお戯れを!絶対になりませんぞ妃殿下!」
「ははは、きっと安全な食べ方もあるのさ」
「まあ本当ですの!? さすがですわエクセレン様!」
「あぁ……私の胃が……もはや限界でございます……」




