第6話: 蝶ネクタイと、ふたりの間にある息づかい...
翌日:
グランド・トレーニングホールは、思っていたよりも冷えていた。けれど、それはきっと俺の神経が張り詰めているせいだ。
高く伸びたアーチ型の窓から、黄金の光が差し込み、磨き抜かれた大理石の床に縞模様を描いている。
天井ではクリスタルのシャンデリアが静かに揺れ、壁一面に設置された鏡が、俺のぎこちない姿をどこまでも映し出していた――白いタキシードに包まれた俺。
肌に擦れてくる布の感触は、まるで「場違いだ」と言われているようで落ち着かない。
「また硬くなってるわね」
と、ベアトリス王女が言った。彼女は俺の周囲を優雅に歩きながら、まるで死にきれない獲物を観察する鷹のような目をしていた。
「努力してるんだけどな……」
俺は小声で呟く。
「兵士みたいにじゃなくて、優雅に見せる努力をしてみなさい」
言うのは簡単だ。
彼女はまさに「優雅さ」そのものだった。
ハイヒールで静かに舞うその姿には、自然と視線を奪われる。
煌びやかな色とりどりなドレスは、まるでそれが彼女の一部であるかのようだ。
俺は一歩前に出て、手を差し出した。
「もう一度やってみようか?」
彼女は首を傾げ、一房の金色の巻き毛が頬にかかる。
「まだよ。蝶ネクタイが曲がってるわ」
「えっ?」
彼女が一歩、俺に近づいた。想像よりずっと近かった。
逃げる間もなく、彼女の手袋越しの指先が俺の喉元に触れた。反射的に喉がごくりと動く。
「じっとしてて。こんな中途半端な格好で舞踏会に出たら、私たち二人とも恥をかくわよ」
彼女の吐息が、俺の皮膚に触れる。冷たくて、落ち着いていて、それでいて……無関心にも感じられる。
だが、俺の心臓はそれどころじゃなかった。まるで狩をしている時に猛獣の虎に襲われるように、ドクドクと音を立てていた。特に彼女がふと、俺の目を見上げたあの一瞬――あれは……長すぎた!
「顎のラインがしっかりしてるのね」
突然、そんなことを言いながら蝶ネクタイを整える。
「そのせいで、真っ直ぐに結ぶのが難しいわ」
……それって、褒め言葉か? 彼女には何度も皮肉混じりの言葉を浴びせられてきたせいで、もう判別がつかなくなってきた。
「はい、完成。これで……なんとか人並みね」
「君にしては随分な褒め方だな」
俺はぼそりと返す。
「慣れないでちょうだい」
再び踊る体勢に入る。
左手を掲げ、右手は彼女の腰に――触れる直前で、俺の手が止まった。
彼女が気づく。
「まだ触るのが怖いの?」
「怖いわけじゃない。ただ……慎重に。前回踊ったとき、俺は廊下の真ん中で部族衣装一枚にされて、召使いたちにドン引きされたからな...」
一度こっちの服装に身を纏ったが最後、なんらかの事件でいきなり服が消えたら誰も卒倒するだろう、特にこの国の文化特有にあるような『ゆうーが』とか『れいぎーさほー』とか......(確か、『礼儀作法』って言うんだっけ?正しい発音で......)
「それはあなたが逃げ出した山羊みたいな踊り方したからよ。さあ、集中して」
ゆっくりと動き始める。
タタタ~!タタ、タタタ~!
タタ、タタ~!タタタタタ~!
一歩、二歩、そして回転!
彼女のヒールに足がぶつかりかけたが、ギリギリで回避できたぞ――!
「ふぅぅ...」
「悪くないわ。まだまだだけど、進歩はあるって感じね」
悔しさを押し殺し、俺は集中する。
彼女の真っ白い手は小さくても、確かな力があった。彼女の姿勢は厳格で、その指示は将軍の命令のように鋭い。
だが……このリズムには、どこか懐かしさがあった。
静かで、抑えられているけれど、どこか故郷の焚き火を囲んだ踊りに似ていた......
「あなた、案外悪くないわね」
数回ステップをこなした後、彼女がぽつりと呟く。
「それが一番怖いかもしれない」
「あんたにとって怖いってことか?」
彼女は答えなかった。
ただ窓の外を見つめたまま、
「舞踏会は四日後よ。皆を驚かせたいの」
と静かに言った王女。
「望むか望まざるに関わらず、あなたが絶対に注目の的になるわ」
「あんたは注目されるのが好きなんだろ?」
「そうよ」
彼女は微笑む。
でもその笑みは、目にまで届いていなかった。
「でも時には、他人を居心地悪くさせるほうが楽しいの」
……正直、彼女のことはよくわからない。
いや、多分誰にもわかっていないのだろう。
...けれど、今この瞬間――彼女の手が俺の手にあり、その息遣いが俺を導いているなら、それでいいと思う。
ただ、次はもう、彼女の足を踏まないようにしないと、だな。
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