60 【sideダリオン】試され、解かれる
アグスティア公爵は、一言も発せず廊下を進んでいく。
その広い背中を、ダリオンは無言のまま追った。使用人の先導もない。石造りの廊下に、二人分の足音だけが硬く響く。
やがて辿り着いた書斎の扉が閉ざされる。
その瞬間、空気が変わった。
壁一面を覆う書棚にはぎっしりと書物が並び、机には地図と報告書が整然と置かれている。
「――座れ」
短く、重い声。貴族として、家長として、そして父としての響き。
促されるまま腰を下ろしたダリオンに、公爵は鋭い視線を向ける。アンリエッタと同じ金色の目。王の眼差しだ。
「……娘を、手に入れたつもりか?」
唐突な問い。だが、想定の範囲内だ。
――やはり、試されている。
当然だ。自分は彼の最も大切な宝に近づくものなのだから。
ここで生き残る道は、怯まず、誠実に、かつ一歩も引かずに応えることだけ。
ダリオンは一切動じず、まっすぐに視線を返した。
「いいえ。私は、彼女に許された者でありたいと願っているだけです」
――アンリエッタを所有しようなどと思わない。
彼女は自由であるべきだ。
自由に笑うその傍にいられれば、それでいい。
「その願いが叶わなくなったら?」
「……叶わずとも、彼女が望むなら、私は身を引きます。それでも、私は戦います。彼女の隣を守る者であるために」
むざむざとその場所を誰かに譲るつもりはない。
だが、アンリエッタが望んだなら――それでも、彼女の一番傍で守る役目だけは、誰にも渡せない。
この命も、この先の未来も、もはやすべてアンリエッタのものなのだから。
試すような目が、鋭さを増す。
「……お前は、かつて騎士だったと言ったな。……一度剣を捨てた男に、娘を託される資格があると思うか?」
「…………」
再び訪れる静寂。
ダリオンは目を伏せ、そして穏やかに言葉を紡ぐ。
「……彼女を守り、願いを叶えるためならば、私は剣を取ります」
――弱者には甘く、躊躇なく手を差し伸べる。
非道や悪に対しては、冷酷で容赦がない。
自分の信じる正しさを貫くためなら泥の道でも歩む。
そんな彼女の姿は、『騎士は弱きものを守るために存在する』というダリオンの信念の体現者だった。
だからこそ守りたい。この身が千々になろうとも。
「…………」
公爵は椅子に背を預け、机上のグラスに琥珀色の酒を注ぐ。
「娘の甘さは、父親である私が一番よく知っている。今回してやられたのも、やはり甘さがあったからだ」
――結婚の約束をしていた相手からの裏切り。
その時のアンリエッタの気持ちを思うだけで腹の底から怒りが湧いてくる。
しかも彼女は殺された。
表舞台から抹殺された。
だが彼女は挫けることなく、己の足で歩いた。己の死すら利用して、国を出て――そしてダリオンは、彼女と出会った。
――陰謀にはまったのは、確かに彼女のうかつさかもしれない。
だが、彼女だけの責任ではない。どうして誰もアンリエッタを守ろうとしなかったのか。助けようとしなかったのか。
もし自分がその場にいればと、何度も繰り返し考えた。
――もし、その時は面識がなかったとしても。
王族のあからさまな横暴から彼女を守る、盾となっただろうに。
「……確かに、甘いかもしれません」
共に過ごす中で、何度も彼女の甘さを目にした。
自分の得にならないことを平気でする。高価な薬をほとんど無償で渡したり、過剰なほどの品質のものを価格を上乗せせずに納品したり。
――あまりにも甘すぎる。
強大な力を持っているのに、あまりにもそれに無頓着で。
――本当に、目が離せない。だが。
「……しかし、それこそが彼女の強さであり、美徳でもあると、私は思っています」
「……あまり甘やかすな」
公爵はやや呆れ気味に息を吐く。
「だが、甘えさせてやってくれ。あの子の母は、早くに死んだ。あの子は、素直に甘えられるような相手がいなかった」
公爵は視線を伏せて、琥珀色の酒を揺らす。
「……私は、良き父親にはなれなかった」
その声は、わずかに掠れていた。
何に対する後悔なのか、ダリオンにはわからない。
公爵の立場も、歩んできた年月も、想像できない領域だ――ただ、この言葉には、軽々しく踏み込んではならない重さがあった。
沈黙するダリオンの前に、グラスが差し出される。
「……ありがとうございます」
静かに受け取り、小さく乾杯の音が鳴る。
一口飲んだ酒は、最上級のものだった。自分と飲むためにこれを開けてくれたのだと思うと、深い感謝が沁み出した。
「北西の死角に気づいたのはお前か」
「はい」
「王都の戦術顧問より鋭い目をしている。大したものだ」
短く評価を口にした後、低く続ける。
「……アンリエッタの夫となる気はあるか?」
「はい」
即答する。
公爵の眉がわずかに動く。
「だが、お前には爵位がない」
――アンリエッタは公爵の娘。
本来なら爵位のない自分は相手にもされない。
自身は、そんなものは必要ないと思っている。だが、彼女の隣に立つには必要なことを理解している。アンリエッタ自身にも、受け取るように言われた。だから。
「必要であれば受け取ります。名乗るかは別として」
「……つくづく厄介な男だな」
グラスを置いた公爵は、琥珀色の液体をじっと見つめた。
「――娘には爵位を継がせるつもりはなかった。王妃として最も重い責任を果たすと思っていたからだ」
「…………」
――もしそうなっていたら、きっと、歴史に名を遺す王妃になっただろう。
あまり、想像したくない姿だが。
「――アンリエッタを、王にさせる気はあるか?」
「それを決めるのは、彼女です」
「貴様はどう思う」
「……彼女が望むなら、私は剣としてその道を切り拓きます」
アンリエッタが女王になれば、多くの人々を引き付ける王となるだろう。
その姿はありありと想像できた。
公爵は低い声で言う。
「ならば、剣のまま、盾にもなれ」
「――心得ました」
◆◆◆
部屋に戻ろうと廊下を歩きながら、ダリオンは心のどこかで戸惑いを拭いきれずにいた。
自分に割り当てられた部屋は、アンリエッタの室内にある。
守るべき対象のすぐ傍――それは確かに都合がいい。何かあれば一瞬で駆けつけられる。
だが、近すぎる。
鍵もかからない扉一枚の隔たり。
一緒に暮らしていた冒険者時代よりも、むしろ距離は近い気がしてならない。
だから、彼女の部屋の扉を開けるときは、いつも心のどこかで緊張していた。
ノックし、静かに扉を押し開ける。
「お疲れ様」
ふわりと笑みを浮かべ、ソファに腰掛けたアンリエッタが迎えてくれる。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に熱がこみ上げた。
だが、面に漏れ出す前に、意識して表情を引き締める。これはもう習性のようなものだ。感情を表に出さず、常に冷静であることは。
「ふふっ、こっちにいらっしゃい。膝枕してあげる」
「…………」
――膝枕?
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
まるで戦場の最前線に突然ベッドが置かれていたような、そんな異物感。
だが、膝を軽く叩いて促す彼女の笑顔に、抗う術などあるはずもなく――
ダリオンは何も言わず、促されるままにソファに座る。ゆっくりと横たわり、アンリエッタの太腿にぎこちなく頭を預ける。
(これは――)
柔らかく、あたたかい。
まるで守られているような感覚を覚える。
おかしい。守るのは自分の側のはずなのに。
すぐに、指先が髪に触れ、優しく撫でてくる。
「あなたはよく頑張っているわ。でも、あまり無理しないでね」
囁くような声が降ってくる。
あたたかい熱と、どこか甘い香り――花のような、ミルクのような――吸い込むたびに、長年胸の奥の張り詰めた糸が緩んでいく気がした。
こんな風に甘やかされるのは初めてで、どうすればいいかわからない。
変な態度をしていないか? 呼吸は乱れてないか? ――そんな懸念が浮かぶ度、髪を梳く指先に溶かされていく。
――静かだった。
耳に届くのは、布が擦れる小さな音と、彼女の呼吸だけ。
「わたくしは、あなたがいてくれるだけでいいから」
何もかも赦されるような美しい声。
騎士であらなければならないのに。自分を律しなければならないのに。
心地よい温もりに包まれ、身体から少しずつ力が抜けていく。
何もかも、溶かされていく。
「ふふっ、かわいい……」
くすぐる様な甘い声。
――本当に、君は甘い。
強く、美しく、優しくて甘い。
君の言葉に、笑顔に、触れられるたびに、心がほどけ、救われる。
――生きていてよかった、と思わせてくれる。
膝の上でまどろみながら、ダリオンはそっと呟く。
「……君こそ、無理はするな」
そう言う唇に、アンリエッタの指先が触れてくる。
その温度に目を閉じた。





