53 ダリオンの騎士団特訓
柔らかな朝の陽がカーテンの隙間から差し込む。
アンリエッタはゆっくりとまぶたを開け、静かな天井を見上げた。
「うーん、よく寝た」
周囲に目をやる。隣に人の気配はなく、昨夜まで傍にあった椅子も、きちんと元の位置に戻されていた。
規律正しく、真面目な彼らしい――そんな思いとともに、ほんの少しだけ寂しさが胸をよぎる。
――スライムのイムは、昨日からずっとアンリエッタのベッドの下に潜んでいる。どうやら新しい環境にまだ慣れていないらしい。
アンリエッタが起き上がるタイミングで、侍女のセラとメイドたちがやってきて、着替えを進める。
――人に着替えさせてもらうのは久しぶりだ。
冒険者の服ではなく、令嬢らしいドレスに着替えて、ドレッサーの前で髪を整える。
そうしていると、侍女のセラが控えめな口調で呟いた。
「……お嬢様が、あのような方をお選びになるとは意外でした」
「そう? 可愛いじゃない、あの人。『クマちゃん』みたいで」
ベッドサイドに視線を移すと、そこにはいつものぬいぐるみ――『クマちゃん』が座っていた。丸い目とふかふかの身体。
セラはその視線の先に気づき、絶句したように眉を引きつらせる。
「お嬢様……殿方は、ぬいぐるみとは違います」
「そうね。ダリオンは『クマちゃん』よりあたたかいもの」
大きくて、硬くて、それでいて優しく包み込むような腕。そこに抱かれていると、不思議と安心するのだ。
気楽に答えるアンリエッタの様子に我慢ならないものを感じたのか、セラは声のトーンを上げた。
「お嬢様――ぬいぐるみとは、危険度が違うのです!」
その言い切りに、アンリエッタはぱちぱちと瞬きをして、くすりと笑いをこらえた。
「危険? 何が?」
首を傾げる。
確かに初見では威圧感があるが、怖いところなんてどこにもないはずなのに。
セラはしばし口を開きかけ、そして意を決したように言葉を紡ぐ。
「何がって……相手は殿方なのですよ? もし何か間違いがあったら――」
「お父様の婿試験は突破したわよ?」
その瞬間、セラの顔が凍りついた。
「…………ッ」
喉の奥で悲鳴のような音が立ち、けれど言葉にならない。
まるでその場に崩れ落ちそうな勢いで、セラは困惑の表情でアンリエッタを見つめる。
「つ、つまり……あの方が、ご主人様に?」
「違うわ」
アンリエッタはきっぱりと言い切る。
「ご主人様はわたくし」
――もし、仮に、自分が公爵家に正式に戻り、ダリオンと結婚したとしても――
公爵位を彼に譲ることなど、あり得ない。
確かにこの国には、結婚した後に妻が爵位を夫に譲る例もある。だが、アンリエッタはそのような慣例に従うつもりなど微塵もなかった。
あくまでアンリエッタが当主。
これだけは譲れない。
もし万が一にもダリオンに爵位を譲るような動きが出たとしたら、決闘だってしてみせる。
けれど、そんな心配はしていない。
(だって、ダリオンは絶対に望まないもの)
そして、ダリオン以外と結婚するつもりもない。
「ダリオンは、わたくしの命令はちゃんと聞くわ。ふふっ、命令じゃなくて、わがままと思っているみたいだけれど」
その言葉に、セラは完全に絶句していた。
アンリエッタは特に気にせず、髪に飾りを差す。
「ところで、ダリオンは?」
「……騎士団の早朝訓練に向かわれました」
セラがようやく声を振り絞る。
そういえば昨日、騎士団の訓練メニューとスケジュールを確認していた。
きっと、今日から本格的に鍛え始めるのだろう。
「そう、熱心なことね。それじゃあ、見学に行かないと」
アンリエッタが立ち上がった瞬間、セラが慌てて前に立ちはだかった。
「お待ちください、お嬢様。ダリオン様には、お嬢様を訓練場に来させないように言付かっております」
「まあ、あの男ったら。わたくしに指図ですって?」
唇に手を当てて、くすりと笑う。
「ダリオン様はこれより、公爵家の騎士たちに己の限界を思い知らせるそうです」
「ふふっ、手厳しいこと」
――ダリオンの本気の教導。きっとアグスティアの騎士たちは精神を根底から叩き直されることになるだろう。
何せ彼は元帝国騎士。どれだけ強くても、自らを弱い人間と評している男だ。
おそらく、厳しい特訓になる。
「お嬢様が顔を出されると、騎士たちがますますやる気になってしまいます。限界を、突破してしまいます――!」
「いいことじゃない」
「下手をすれば死人が出ます!」
セラに本気の危惧にアンリエッタは微笑む。
「死ぬ前に助けるわよ。大切な、アグスティアの騎士たちですもの」
◆◆◆
アグスティア城の裏手にある訓練場。
朝霧が晴れぬうちから、そこは騎士たちの荒い息と、泥と汗と土の匂いに満ちていた。
剣を振る音。槍が風を裂く音。地面を踏みしめる音。
その中央――もっとも汚れ、もっとも泥まみれになっている場所に、ひときわ背の高い男がいた。
ダリオンはただの教官ではない。檄を飛ばすだけの上司でもない。
剣を握り、共に走り、水を浴び、誰よりも先に動いているのは、彼だった。
彼の背に続こうとする騎士たちの息は、もはや限界。
腕立て、走り込み、素振り――繰り返される三点セットの猛攻に、白目を剥いて倒れ込む者すら出ていた。
アンリエッタはその光景を、訓練場の端から日傘をさしながら見下ろしていた。
(まったく。あなたらしいわね)
自らが最も苦しみ、最も汗を流す――
そんな男だからこそ、誰よりも信頼できる。
泥を拭いながら歩み寄ってきた彼に、アンリエッタは柔らかく声をかけた。
「随分とハードな訓練をしたみたいね。初日から張り切りすぎじゃない?」
ダリオンは息一つ乱さぬまま、淡々と返す。
「君のせいだ。主君の姫に見られて発奮しない騎士はいない」
「ふふっ、だから来るなと言ったのね?」
「そういうことだ」
そのやり取りの背後には、死屍累々の騎士たち。
訓練という名の地獄を味わった者たちは、もはや蚊の鳴くような声すら出せなかった。
そんな騎士たちの視線もものともせず、アンリエッタはひょいと足を進めた。
跳ねる泥も気にせず、ダリオンの傍まで寄る。
「……アンリエッタ、あまり近づかないでくれ。君の足が汚れる」
「ふふっ、泥まみれね。あなたらしいわ」
さらに、近づく。
「……アンリエッタ」
ダリオンの声音がわずかに低くなる。
だが、アンリエッタはおかまいなしに彼の上着へそっと手を添える。
「ダメかしら? わたくし、あなたの匂いが好きなのよ」
ダリオンの肩が一瞬びくりと揺れた。
「なんだと……?」
「疲れてるときのあなたって、男の人の匂いがして、好きなのよね」
訓練場の時間が、静止する。
ぴくりとも動かない騎士たち。
まばたきを忘れた者、呼吸を止めた者、精神がどこかに飛んでいった者。数名は本気で倒れそうだった。
「……せめて人前では、控えてくれ」
「ふーん、あとでならいいのね?」
「…………」
耳まで赤く染まるダリオンに、アンリエッタは満足げに微笑んだ。
「ねえ、この後視察に行くのだけれど、あなたは来れる? それとも休憩かしら?」
「――これくらいの鍛錬で倒れるほど、やわな鍛え方はしていない」
強がりでも何でもなく、ただ事実を述べる声。
(それ、後ろの騎士たちに刺さってるわよ)
思いつつも口には出さず、アンリエッタは朗らかに続ける。
「まああなた、早朝も夜もよく一人で訓練していたものね。これくらい、たいしたことないわね。ねえ、もう朝食は食べたの?」
「いや、まだだ」
「なら、一緒に食べましょう。その前にちゃんと着替えてね」





