51 アグスティア城
執事長ルドルフの案内で、アンリエッタは城内の回廊を歩く。
懐かしい空気に、嬉しさと寂しさが込み上げる。
「わたくしがいなくなってから、何か変わったことはあった?」
問いかけに、先を歩いていた老執事が立ち止まる。背筋を伸ばしたまま、振り返らずに答えた。
「お嬢様のお部屋はそのままにしております」
「それはよかったわ」
「――城壁の補修は一通り完了いたしました。地下の備蓄庫も拡張し、保存食・武具・薬品等の補充も進めております」
ルドルフが淡々と告げる報告に、アンリエッタは眉根を寄せた。
(まるで、戦の準備ね……お父様、本気で王都を焼くつもりだったのかしら……)
王家に嫁ぐはずだった自分――アグスティア公爵家の嫡子、アンリエッタ・アグスティアが“死んだ”ことで、すべては大きく狂ったのだ。
本来であれば、アンリエッタが産む子の誰かが王位継承権を持ち、同時にアグスティア公爵位を継いでいくはずだった。
だがアンリエッタがいなくなれば、次代の後継がいない。父が後妻を迎え、子をもうけるか、あるいは養子を取らなければ――アグスティア公爵家そのものが消滅し、広大な領地が王家に返上される流れとなる。
(お父様が対応する前に倒れれば、政敵たちも笑いが止まらないでしょうね)
そうさせないための防衛強化だった。
そしてこれからのための。
仮想敵は、他国や対モンスターだけとは限らない。
そして権力闘争に暗殺はつきもの――アンリエッタの思考は、自然と現実的なところに至る。
――領地の防衛強化は、想像していた以上に重要な依頼のようだ。
アンリエッタはダリオンの横顔を見上げて、問いかける。
「ねえ、ダリオン。あなたから見て、アグスティアの騎士たちはどうだった?」
しばし沈黙ののち、ダリオンは静かに答える。
「……弱くはない。だが、甘い」
――ああ、彼らしい。
アンリエッタは少し嬉しくなりながら、続く言葉を聞いた。
「実戦をほとんど経験していないな。鍛錬は重ねているが、覚悟が足りない。あの剣は、誇りを守るための儀礼用でしかない」
「ふふっ、手厳しいこと。でも、そのとおりよ」
アグスティアの騎士たちは、長年平穏な時代を生きてきた。戦火に晒されることなく、騎士道と名誉を誇りとしてきた。
その一方で、現実的な戦術や実戦経験には明らかに乏しい。
「お父様の依頼は公爵領の防衛力強化――騎士団の鍛え直しも、きっと喜んでいただけるはずよ。頑張ってね」
そしてそれは自分たちの立場の強化にも繋がる。
城の上階にあるアンリエッタの部屋に到着する。
その部屋は、本当に昔のままだった。毎日掃除してくれているのだろう。昨日まで普通に暮らしていたかのような空気が残っている。
「ダリオン、あなたは隣の控室を使って」
アンリエッタは言って、部屋の中にある扉を開ける。
「本当は侍女や女性騎士の待機部屋なんだけれど、あなたならいいわ。家具はすぐに揃えるわね」
控室は、質素なものだった。最低限の寝具。窓も小さく、家具もない。
昼間は侍女が主人のための準備を整えている場所であり、夜は護衛が控える場所になっているのだから当然だ。
ちなみに鍵もかからない。
ダリオンはアンリエッタの背後から動かず、扉の奥を眺めていた。どこか落ち着きがない表情で。
すぐ後ろでは、老執事ルドルフが黙って成り行きを見守っていた。
「……どうしたの? やっぱりもっと広い部屋がいいかしら?」
「いや、広さは問題ではない。ただ、君に近すぎる」
「だからいいんじゃない」
再びの沈黙。執事長は明らかに耳をそばだてている。
――二人とも、アンリエッタの言葉に表立って反対することはないものの、空気がわずかに張り詰めている。
堪えきれなくなったアンリエッタは声を上げた。
「何よ、一緒に住んでいたのに! 一緒のベッドで寝たのに!」
ダリオンの瞳がわずかに揺れる。彼は少し俯き、ぽつりと呟いた。
「……あれは、君が望んだから添い寝しただけだ」
「ならわたくしが望むなら、近くの部屋でも問題ないでしょう?」
「…………」
「これは命令よ。あなたはわたくしの一番近くで、わたくしの安全を守りなさい!」
――命令と言えば、ダリオンは絶対に逆らえない。
『運命の契約書』でも定められている。ダリオン本人はアンリエッタのわがままを聞いているだけの感覚のようだが。
「……了解した」
ダリオンが承諾すると、執事長が頷く。
「……それでは、すぐに寝室として整えます。しばしお待ちください」
「お願いね、ルドルフ」
アンリエッタは軽やかに頷き、くるりと踵を返そうとしたそのとき、ダリオンが低い声で呼び止めた。
「アンリエッタ。少し、話がある」
「どしたの?」
小首を傾げると、ダリオンは真剣な眼差しで言葉を紡いだ。
「この城の壁の厚みは充分だ。外壁も強度がある」
「うん」
「ただ、監視塔が東南に集中していて、北西の隅に死角がある。あそこには短弓兵を一名常駐させたほうがいい」
「……え?」
唐突な軍略に目を丸くするアンリエッタをよそに、ダリオンは淡々と続ける。
「廊下は広く逃走や戦闘には有利だが、防音処理が甘く、密談には不向きだ。使用人用の通路が多いように思える。侵入経路に転用されかねない。ここも警備を強化するべきだ」
「ええと……」
「君の寝室だが――逃げ道が少ない。窓が外壁から弓で狙える角度にあるのも気になる」
畳みかけるような防衛分析。アンリエッタはようやく理解した。
「……あなた、そんなことばっかり考えてたの?」
「君を守るためには当然だ」
その真面目すぎる声音に、アンリエッタは小さく笑った。
「あなたがいればこの場所は安全ね。領地の防衛強化策も、あなたにお願いしようかしら」
「……君が望むなら、策は立てよう。すべてを守れる保証はないが、必ず最善は尽くす」
「ふふっ、頼もしいこと。あなたが策を立てて、わたくしが錬金術で実現する。最強ね」
その言葉に、ダリオンはわずかに眉を上げるが、否定はしない。
「すぐに領地と近郊の地図を用意するわ」
「それは、私が見てもいいものなのか?」
アンリエッタはくすりと笑う。
「まだ遠慮しているのかしら? あなたはわたくしのものなのに」
「……そう言われてしまえば、断れないな」
「わたくしを守るための防衛策――しっかり考えてね。予算は度外視でいいわ」
アンリエッタが錬金術で作るので。






