46 旅立ちの決意
父――ジグフリード・アグスティア公爵は、最後まで堂々たる背中を見せたまま、屋敷を後にした。
リビングに戻ると、ソファの下から出てきていたイムが掃除をしていた。来客があったので特に念入りに。
アンリエッタはソファに腰を下ろし、大きく息をついた。
(……もう、みんな、わたくしの気持ちを置いてけぼりにして……)
婿だの、領地防衛だの。
自分に深くかかわることなのに、勝手に決まっていく。
ふと隣に視線を向ければ、ダリオンは相変わらず落ち着いていている。
――そもそも、この男はどうして平然と婿試験を受けたのか。
「……ねぇ、ダリオン。あなた、本当に婿入りする気はあるの?」
ぐいっと覗き込むと、ダリオンはこちらを見たままほんのわずかに眉を動かす。
「……君の父上が、そう望むなら」
「父じゃなくて、わたくしの話よ。あなた、お父様と結婚するつもりなの?」
思わず食ってかかると、彼はきょとんとした表情のまま、淡々とした声で返した。
「まさか。君以外と将来を共にする気はない」
「真剣に答える場所が違う!」
誠実さゆえに話がズレるという、最高にダリオンらしい返しだった。悪気がないのはわかっているのに、なぜか余計に腹が立つ。
アンリエッタはむっと唇を尖らせながらも、姿勢を戻して、彼の瞳をまっすぐに見つめた。
「話を聞いていたんでしょう? いまやわたくしの存在は、争いの火種、火中の栗みたいなものよ。下手に手を出したら火傷するわよ」
王家にとっても、政敵にとっても、自分は過去の亡霊であり、目障りな生存者だ。
そして父にとっては――使いどころのある駒。
そう、駒なのだ。
――アグスティア公爵領の防衛強化の依頼を出してきた意図はわかっている。
領地の防衛強化の依頼――これは嘘ではない。だが、すべてでもない。
おそらく、娘を手の届くところで保護しておきたいという意図もあるだろう。
父は公爵であり、軍人であり、政治家だ。情に流されることはない。
ダリオンはわずかに目を細め、揺るぎない声で言った。
「君が火の中にいるとしても、私は躊躇わずに拾う」
凛とした声音。その瞳には一切の迷いがなかった。
「――すべては君の望むままに。どの場所へ行き、どの道を選んだとしても、私は君の傍にいたいと思う。それが婿入りという形になっても、それもいい」
「……本当?」
「ああ。君と生きる覚悟がなければ、口づけしていない」
「……本当に、あなたって人は……っ」
――この男、キス一つまで重すぎる。
優しすぎるのか、頑固なのか。
「わたくしとかお父様の望みじゃなくて、あなた自身の望みはないの? 本当に、欲がないのね」
からかうように言えば、ダリオンは小さく首を傾げた。
「これ以上なく貪欲だと思うが……」
「……わたくしの傍にいることが?」
小さく問うと、彼は静かに微笑んだ。
否定の気配は、どこにもない。
そのあまりにも真っ直ぐな眼差しに、アンリエッタは思わず顔を逸らした。熱くなった頬が、嘘のように火照っていく。
「……な、なら、お父様の依頼も本気で受ける気?」
「当然だ。一度受けた依頼は完遂する。だが、君にまでそうしろとは言わない」
「見くびらないで。わたくしの生まれ育った地の話よ。わたくしが行かなくてどうするの」
きっと、面倒なことになるだろう。死んでいるはずの公爵令嬢が、領地で冒険者活動なんて。
それでも。
「――やるからには徹底的にやるわよ」
公爵の娘として――そして、錬金術師アンリエッタとして。
ダリオンはふっと目を細め、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「――君はやはり、美しいな」
「ふ、ふふん。当然よね! そういうことで、ダリオン、準備しなさい!」
胸を張ってみせると、ダリオンはすぐに真面目な表情へと戻る。
「……それで、この家はどうする?」
「どうするって?」
「契約を解除するか、それとも何か月分か家賃を払って借りたままにしておくか」
つまり、このまま引き払うか、借りたままにするか、いっそ買い上げるか。
買い上げるのが一番手っ取り早いが、そうなるともし戻ってこなかったときに周囲に迷惑をかける。
アンリエッタは住み慣れた空間を見渡した。壁にかけた薬草の束。イムの寝床。鍋と器具が並ぶキッチン。そして、居心地の良いソファ。
「……借りたままにしておくわ。わたくし、この場所、気に入っているもの。冒険者の利点は、拠点をいつでも変えられることでしょう?」
たったふたりと一匹の、ささやかな城。
けれど、自分にとっては、大切な場所だった。
「どうせ、空飛ぶ絨毯で移動はあっという間だもの」
にやりと笑うと、ダリオンは静かに頷く。
「了解した。必要な物資の整理は私がやろう。君は自分の荷物をまとめてくれ」
「ふふっ、任せたわよ」
◆◆◆
ギルドの扉を開けると、いつも通りの喧噪が耳に飛び込んできた。笑い声、交渉の声、武具の軋む音。そのどれもが、アンリエッタにとって馴染み深い。
「アンリエッタさん、ダリオンさん、お疲れさまです!」
カウンターのギルド職員が明るく出迎えてくれる。
「こんにちは。今日はちょっと報告があって来たの」
「えっ……いよいよ、ご結婚ですか?」
「違う!」
アンリエッタは気を取り直し、カウンターに寄りかかる。
「家賃の前払いはできる? とりあえず一年分」
「い……一年分?」
いま借りている物件は冒険者ギルドが仲介役になっている。
アンリエッタは一年分の家賃と迷惑料込みの金貨をカウンターに置く。
そして、家の鍵も。
「一応鍵も預けていくわ。何かあったら対応お願いね。もし一年たっても戻ってこなかったら、家のものは全部処分してくれていいわ」
大切なものはもう既に整理してある。
アンリエッタはさらに、数枚のメモ用紙を渡す。
「あとこれ、ツカレトレールとかのレシピ。よかったら販売して」
「えっ、いいんですか? あれ、ものすごく売れてますよ」
冒険者たちの怪我を治すポーションのほかに作った、一般人でも使える疲労回復用のポーションや錠剤。それらは安定して売れ続けていて、アンリエッタの収入源にもなっていた。
「いいのよ。もう充分稼がせてもらったもの。作りたいって人にレシピを販売して作ってもらって」
もう完全に作るのに飽きていた。
レシピを自分で販売して権利料だけもらう計画も立てていたが、その管理が面倒くさい。
それにもう、ちまちまとお金を稼ぐ必要もない。
そもそもダリオンに支払うために護衛の報奨金を稼いでいたのだが、彼がいらないと言うのだから。
「あ、アンリエッタさん……もうそろそろ《銀級》になってもいいのでは? いままでの依頼の達成と、レシピの寄付で、ギルドへの貢献度は充分です!」
「そうね……」
そうすれば、ダリオンと同ランクになる。《金級》にならなければ、指名依頼を受けることもない。
――ちょうどいいかもしれない。
これからアンリエッタは冒険者ギルドがなかったような場所に行く。少しでもランクが高い方が、冒険者としての信頼も高まる。
「昇格の手続きってすぐにできるの?」
「あ、はい。カードの更新だけですので、わりとすぐにできますよ」
「なら、お願い。でも、《銀級》じゃなくて《銅級》でね」
「えっ、それでいいんですか?」
「いいのよ。一つずつ上がっていくのも素敵でしょう?」
金属製の冒険者カードを渡す。アンリエッタの唯一の身分証――
「了解しました。ところでその、まさか、別の土地に行かれるとかですか……?」
「そういうことよ」
頷くと、ギルド職員の顔色が青くなる。
「そんな、アンリエッタさんとダリオンさんがいなくなったら、依頼の回転率が……!」
「あら? ここの冒険者も、スタッフも、実力のある方々ばかりじゃない。わたくしたちがいなくなったところで、そんなに変わらないわよ」
「決意は……固いんですね」
「ええ」
「……少々お待ちください」
少しして、新しいカードが返される。
――《鉄級》から、《銅級》へ。
冒険者カードを指でなぞり、自然と笑みが零れた。
「ところで、どちらに行かれるんですか?」
「レグルス王国よ」
「なるほど……冒険者の誘致が進んでいるそうですからね……アンリエッタさんの故郷ですし」
「そうなの。ちょっと、力になってこようと思って」
あくまでさらりと笑う。
「アンリエッタさんとダリオンさんがいらっしゃったら、王国のギルドも安泰ですね」
「だといいけれど、立ち上げ初期ってきっと大変よね?」
「そ、そうでしょうね……」
「ねえ、冒険者を誘致するのって、どうすればいいのかしら」
好奇心で聞く。決して、公爵家の娘――次期当主候補としての質問ではない。
「――冒険者ってのは実利で動く」
答えたのは職員ではなく、ギルドマスターのベルトラムだった。
「依頼の質と量、冒険者への支援、報奨金……立ち上げ時期はそのあたりが重要になってくるな」
カウンターの奥から出てきながら、ベルトラムはどこか懐かしそうに言う。
「最初は金で釣ってもいい。信用はあとからついてくる。……それと、新人の育成を忘れない方がいいぞ。地元から人材を育てていかないと、定着しないからな」
「なるほど……勉強になりますわ」
アンリエッタは静かに頷いた。
「正直、お二人さんがいなくなるのは痛いが……いつでも戻ってきてくれよ」
「ええ、もちろん」
「それで、いつ発つんだ?」
「いまからです」
ベルトラムの顔が強張る。
「またずいぶんと急だな」
「ええ、本当に」
アンリエッタは軽くローブの裾を持ち上げて、礼をする。
「それじゃあ、皆さま。お元気で。またお会いしましょう」






