03 結界の家
王都をひっそりと脱出したアンリエッタが向かったのは、王国の北に位置する『瘴気の森』だった。
ここは大昔からの危険地帯で、絶対に近づかないようにと王国の民は小さい頃から言い聞かされている。近づけば必ず命を失うと。
通常は大人の足で七日の距離。
だがアンリエッタは王都脱出の翌朝にはその場所に辿り着いていた。
(ふう、夜通し走ると少し疲れたわ。この辺りで休みましょう)
何も特別なことはしていない。錬金術で少しばかり身体を強化して、七日の距離を一夜で移動しただけだ。
「いい運動にはなったわね」
呟きながら森を見る。
朝だというのにその部分だけ黒い靄のようなものが立ち込めていて、どんよりと暗い。いかにも何かありそうな雰囲気だ。
(さすが『瘴気の森』。禍々しさが半端ないわ。大型魔物の死体でも眠っているのかしら? だとしたら、いい素材になりそうだけれど)
生物を近づけさせない澱んだ瘴気が漂っている。
中にいるのは魔物ぐらいだろう。ここには冒険者すら近づかない。不可侵の領域。
(瘴気という話だけれど……どちらかといえば、濃すぎるマナが何かの影響で変質しているような感じね……)
アンリエッタはそこに躊躇なく入っていく。
誰も近づかない場所ならば、逃亡者にとっては都合がいい。
一見、どこにでもある夕闇の森。
しかしよく見ると何もかも違う。
木々は生い茂っているが鳥はおらず、虫もいない。草もない。小さな木の芽もない。
まるで何も知らない子どもが描いたような森。
どこまでも静かな――何もかも呑み込んで食べてしまっているような森の中、アンリエッタはちょうどいい広さの場所を見つけて足を止めた。
「この辺りで良さそうね。このマナの濃さなら、なんでもできそう」
久しぶりに口から声を出す。
前世の記憶を取り戻してからほとんどしゃべっていなかったので、やや新鮮な感覚だった。
【錬金術の極意】
――サブスキル発動――
【即興レシピ】【材料効率化】【細部自動化】
地面の土が盛り上がり、周囲の木々が分解されて集合し、土でできた立方体が現れる。窓も何もない四角い物体が。
(できた――『結界の家』)
アンリエッタは笑顔を浮かべ、立方体に近づく。するとアンリエッタを迎えるようにドアのような黒い穴が開き、アンリエッタはその中に吸い込まれるように入っていった。
――そこは、公爵邸の自室だった。
天蓋付きのベッドに、植物模様の壁紙、厚手のカーテン、暖かな光を放つランプ、そして足元には柔らかな絨毯。
どれも、昨日まで住んでいた部屋と寸分変わりはない。
空気も錬金術によって錬成されているので澄んでいるし、香りもそのままだ。
もちろん実際に部屋を持ってきたわけではない。アンリエッタが錬金術で再現したのだ。
慣れ親しんだ部屋でようやく一息吐く。
椅子に座って肩の力を抜いた瞬間、記憶を取り戻してからいままでずっと気を張っていたことに気づく。
ぼんやりと天井を見上げながら、自嘲気味の息を零した。
「ふふっ……弱くなったわね、わたくしも。仕方ないか。いまは不老でもないし、魔術や神聖術は引き継いでいない……何かあったら死ぬわね」
ずっと羽織っていた『隠形マント』と深紅のローブを脱ぐ。
ティーセットを『錬金術師の部屋』から取り出し、錬金術で熱湯を錬成し紅茶を淹れる。
ふわっと広がる大好きな香りにアンリエッタは頬を緩めた。
「ふふふ。さて、これからどうしましょう」
お気に入りのクッキーとケーキを再現したものを食べながら、ぼんやりと考える。
もう何をする必要もない。
食べるものにも住む場所にも着るものにも困らない。錬金術さえあれば。
前世も錬金術ですべてを作っていた。だからこその、このスキルを選んで引き継いだ。
「でも、それって少し退屈だわ」
せっかく自由になれたのに、何もせずにごろごろしているだけなんて。
そういうスローライフはもう前世でやり飽きた。その結果、世界の理を超越することに熱心になって、秩序の守護者に目を付けられてしまったわけだが。
「また旅をしようかしら。この時代のことはほとんど知らないものね。知らないことを知って、知らない景色を見るのは、きっと楽しいわ……錬金術で人助けというものも面白いかも? そうなると、従者が欲しいわね。女の一人旅はきっと色々面倒だわ……」
前世の記憶は、いまとなっては時代遅れのものばかり。
正確に調べたわけではないが、おそらく500年は経っている。なんとなくの肌感覚だが。
「……絶対に裏切らない相手がいい」
ぽつり、と。
本音からの呟きが、アンリエッタに新しいアイデアをもたらす。
「そうよ。裏切れないようにすればいいじゃない」
アンリエッタは虚空に手を掲げた。
【錬金術師の極意】
――サブスキル発動――
【即興レシピ】【物質転換】【運命力】
アンリエッタの肉体の一部とマナが、一枚の紙へと変わる。
羊皮紙によく似た肌色の紙――何も書き込まれていない汚れひとつない紙を、アンリエッタは満足げに見つめる。
「できたわ、『運命の契約書』……」
『運命の契約書』はお互いの同意さえあれば、どんな契約でも結べる。
アンリエッタを裏切らない、傷つけない、情報を漏らさない、という必要事項を先に記す。
これに同意した相手は絶対に契約事項に逆らうことはできない。
そして、アンリエッタの命令には絶対服従――ただし、己の生命を守れる範囲で。
「あとは適当な相手を見つけるだけね……あら? それが一番問題じゃない?」
根本的なことにいまさら気づく。
「適当な冒険者でも見つけて、特大の恩を売って、その代わりに契約を結ばせる……として、同意を貰うために魅了アイテムでも使おうかしら。それって同意ってみなされるのかしら……? わたくしが同意してないって思ってたら、きっとダメよね……」
それにどうせなら腕の立つ人間がいい。
しばらく一緒にいるのだから、ある程度見た目もいい方がいい。
一緒にいて楽な相手がいい。優しくて気が利く相手がいい。
要求は留まることを知らない。
「まあいいわ。そのうち都合のいい相手が見つかるでしょう、うん」
アイテムを『錬金術師の部屋』に放り込む。
「さて、料理でもしようかしら。何を再現しましょうか……」
呟いた刹那、不穏な気配を感じて身体が強張る。
それは、異常なマナの波動だった。音のない咆哮が響き、アンリエッタの足を竦ませる。
(何これ……もしかして、竜?)
前世の自分の命を奪った竜が、アンリエッタが前世の記憶を取り戻したと気づいて再び迫ってきたのだろうか。
(――まさか。いくらなんでも早すぎる。まだ何もしていないわよ。前世でだって、相当長い間放置してたじゃない)
次の瞬間、部屋の外で大きな音が響く。
何かが空から降ってきたような音。
アンリエッタは錬金術で全身の神経を研ぎ澄まし、警戒しながら外に出た。
どこまでも不気味な森の中――作り物のような樹の下に、先ほどまではなかったものがあった。
それは、人間だった。
全身血まみれの男。腕や足が普通ではありえない角度に曲がった、壊れた人形のようなもの。内臓も破裂している。口や鼻から血が流れていた。
(死んでる……? いえ、かろうじてまだ生きている……)
アンリエッタは警戒しながら瀕死の人物を見る。濃い血のにおいに眉を顰めながら。
歳は二十代半ば辺りだろうか。血に濡れた金髪に、鍛えられた身体、戦闘に向いていそうな頑丈で動きやすそうな黒い服に、作りのいいガントレット。
気を失っているのか、目は固く閉じられている。
だが、剣だけは。このような有様になっても離さずにいた。
まるでそれが最後の矜持のように。