02 錬金術師の部屋
国を出るのは決定事項だが、準備は必要だ。ほとんどのことは錬金術でなんとかできるとはいえ、お気に入りのものは持っていきたい。
勝手知ったる自分の屋敷。『隠形マント』で気配を隠しているアンリエッタは、あっさりと自分の部屋に到着する。誰に見つかることもなく。
(さて、あんまりのんびりはしていられないわね)
早速、動きやすい服に着替える。脱いだ服はベッドの上に置いていく。
気に入っている外出着に着替える。編み上げブーツを履き、深紅のローブを手に取る。夜の中で目立ちにくい色を。
(あとは手荷物――トランクを持ち歩くのは面倒ね。となるともちろん、あれの出番よね)
【錬金術の極意】
アンリエッタはそっと手を前にかざす。
集中し、体内のマナと世界のマナを共鳴させ、何もないところに何物でもないものを作る。
ただの空間に、別の空間を作り、それを重ねて出入口を繋げた。
(できたわ、『錬金術師の部屋』!)
錬金術師は取り扱うアイテムが多いので、いつでもどこでも収納できて取り出せる空間があると便利。
そう考えて前世で作り上げたのがこの『錬金術師の部屋』だ。
しかも内部は時間が停止しているので、収納したものは劣化することがない。
前世は無限の広さを持つ空間を作ったが、今回はこの屋敷程度の広さしか作っていない。
それでも、理論上はこの屋敷ごと持ち運ぶことができる――のだが。
(さすがに大荷物ね。お屋敷はお父様の持ち物だし、わたくしが持ち出すわけにはいかないわ)
屋敷がなくなって愕然となっている父親を想像すると、なんだか可笑しくなって思わず笑う。
そうすると、ふっと肩の力が抜けたような気がした。
(大きさには不安があるけれど、無限の空間を作るのはチートすぎるものね。また竜に目を付けられるのは嫌だし。もし足りなくなったら作り直しましょう)
できる錬金術師なので、自重というものを知っている。
アンリエッタは再び自嘲気味に笑った。
(いま思えば、昔のわたくしも若かったわね。なんでもできるって、自分の力を誇示しようとしていたわ)
いま思えば、とても効率の悪い生き方だった。
もっと世界のシステムをうまく利用して賢く生きるべきだった。
だがそれも、一度失敗したから知ることができたこと。
もう若気の至りの失敗はしない。
だから、これからの人生は成功しかない。
アンリエッタは『錬金術師の部屋』に脱いだドレスやお気に入りのクマのぬいぐるみ、ティーセットなどを詰め込んで、思い出がたくさん詰まった部屋と屋敷に別れを告げた。
外に出ると、夜風がふわりと髪を揺らした。
(――さて、最後の仕事をしましょうか)
王家の忠臣たるアグスティア公爵家の令嬢として。
◆◆◆
――一週間後の夜。
公爵令嬢アンリエッタ・アグスティアの偽りの葬儀が終わった夜、アンリエッタは『隠形マント』を着たまま、レオナード王太子の部屋に入り込んだ。
そこには抱き合う恋人たちの影があった。
「ああ、エミリア……ようやく君に触れられる……」
「愛しい殿下、早く来て……」
とても仲睦まじく、幸せそうな二人。
アンリエッタは馬鹿馬鹿しい気持ちになりながら、『隠形マント』を脱いで髪をふわりと広げた。
「夜分失礼します」
「ア――アンリエッタ!?」
いままさに愛で結ばれようとしていた二人は、突然の侵入者に驚愕して抱き合ったまま硬直した。
王太子はまるで幽霊を見るような目でアンリエッタを見ていた。
「ど、どうして、お前、死んだはずでは――」
「ええ、窓から身投げして死にました。火葬にしてくださいましたね。熱かったですわ」
そういうことになっている。
アグスティア公爵家のアンリエッタは己の犯した罪の大きさに耐え切れず、窓から身を投げた。損傷の激しい遺体は、宮廷錬金術師に最低限整えられた後に、速やかに火葬に処された。公爵家の許可も得ずに。
その作り話を王太子も信じている。棺内の遺体の顔を確認もしなかった愚かな男は。
「わたくしは哀れな亡霊です」
だからこの嘘にも説得力が出る。
それに、そうでなければ、警備の厳しい王太子の寝室になど入り込めるはずがない――
「それでも、愛する王太子殿下にどうしてもお伝えしなければならないことがあって、戻ってきたのです……」
アンリエッタは口元に笑みを浮かべ、王太子が守っているエミリアを指差した。
「そちらの、聖女エミリア様には愛人がいらっしゃいます。その方のために王太子妃になろうとしているのですわ。彼に便宜を図るために」
王太子の顔が引きつる。
「――エミリア……? それは本当なのか?!」
以前はアンリエッタの話などまったく耳を貸さなかったくせに、死者の話は無条件に受け入れている。
「う、嘘です……! 殿下、わたしを信じてください……!」
エミリアは悲痛な声を上げ、涙を滲ませて切ない表情で王太子を見上げる。
だがそれでも、王太子の表情からは疑念が消えていなかった。
「殿下、彼女のお腹には子どもがいます」
「――――ッ」
エミリアの顔面が一瞬で蒼白になる。
そして、静かにアンリエッタを睨んだ。
アンリエッタはため息をつく。
王太子とエミリアはもちろんまだ婚約すらしていない。その状況で肌を重ねるなどありえない。
それでもエミリアはそういう状況に持っていく必要があった。
「……そ、それは本当なのか……?」
「あなたの御子だと訴えるために、どうしても早めに肌を重ねたかったみたいですわね。まったく、ふしだらなこと……」
その瞬間、王太子がエミリアを突き放す。
汚らわしいものを見る目で、愛する恋人を睨んでいた。
「どういうことだエミリア! 僕を騙したのか!」
「し、知らない! わたしは悪くないもの!」
エミリアは目と耳を塞いで訳のわからないことを叫んでいる。
知らないはずがない。悪くないはずがない。彼女がやろうとしていることは、王家の主権を脅かす行為だ。
「いまはお手を触れず、彼女を王城で優しく守っていれば、いずれわかりますわ」
時間が経てば、いずれ何らかの答えが出る。
王太子が手を触れていないのに腹が膨らめば、誰の子かということに必ずなる。
もし途中で人知れず流れてしまったとしても、王太子の心に生まれた疑心はそう簡単には消えはしない。
アンリエッタが消させない。
「神殿の神官たちを調べてみてくださいな。特に、殿下と同じ髪の色の方を」
もちろんアンリエッタは相手が誰かを知っている。だが、簡単には答えは教えない。自分で辿り着いた真実の方が価値がある――……
妻帯を禁じている神官が聖女と恋仲で、子までできて、その子を王太子の子と偽ろうとしている。そして、その神官は王太子妃の後ろ盾を得て、大神官に出世しようとしている――などという真実は、王太子自ら辿り着いた方がきっと楽しい。
そして、二人の間に真実の愛があるのなら、この困難もきっと乗り越えられるだろう。
アンリエッタはその結末を、遠くの地から見守ることにする。
「それではわたくしはこの辺りで。ごめんあそばせ」
別れの挨拶をして、『隠形マント』を被る。その瞬間、二人はアンリエッタの姿を見失い、同時に驚愕の声を上げる。
エミリアは恐怖で叫び声を上げていた。
その瞳は、アンリエッタを復讐に訪れた亡霊と信じきっていた。
アンリエッタは最後に『錬金術師の部屋』から手紙の束を取り出し、床に撒いた。
それはエミリアとその恋人とのやりとりを記した手紙だ。
燃やされていたものをわざわざ灰から復元したのだ。
手紙を複製したものと、事の顛末を記したものも、既に父と王家に届けてある。
もう、なかったことにはできない。
「お幸せに」
踵を返し、『擬態する鍵』で扉を開け、するりと部屋から出る。
扉が閉まる寸前、王太子の怒鳴り声とエミリアの悲鳴が聞こえてきた。
アンリエッタはそれらにもう興味を示さず、振り返ることなく王城から出た。
「さあ、わたくしは新しい人生を謳歌するわ!」
アンリエッタはどこまでも続く夜空の下で、新たな人生の始まりを迎えた喜びに震えた。





