01 悪役令嬢は前世の記憶を取り戻す
「悪しき魔女アンリエッタ・アグスティア――お前との婚約を破棄する!」
王太子レオナードの冷ややかな宣言が、王城舞踏会の場に響く。
彼の手が守るのは婚約者の公爵令嬢アンリエッタではなく、可憐で可愛らしく、そして不安そうに瞳を揺らして王太子に縋っている男爵令嬢エミリアだ。
最近聖女に認定されたばかりのエミリアを、王太子はとても気にかけていた――……
アンリエッタは頭から血の気が引いていくのを感じていた。
この場には王も王妃もいない。父であるアグスティア公爵もいない。いまは外交のために国外に行っていて、だからこそ、王太子はこの舞踏会で婚約破棄宣言をしたのだろう。
「お前が心優しき聖女エミリアを虐げていたのはわかっている。そのような悪しき人間を王太子妃になどできるものか! 私の妻となるのはエミリアだ。お前は国外追放とする!」
華やかな会場の空気は完全に凍りつき、貴族たちの視線はアンリエッタに注がれている。
嘲笑、同情、軽蔑――様々な視線を受けながら、アンリエッタは苦痛に口元を歪めた。
ただし、それは婚約破棄宣言――そして国外追放宣告へのショックからではない。
頭に走る強い痛みからだった。
(――痛い……)
割れそうに痛い。気を失いそうに痛い。
押し寄せる記憶の奔流に、頭が悲鳴を上げている。
(痛い痛い痛い! ああ、でもようやく、ようやく思い出せた――)
この瞬間は前世で――大魔女である前世で未来視した光景そのものだ。
裕福な公爵家の長女アンリエッタとして生まれ、王太子の婚約者となり、国母となる未来を約束された――はずが、王太子に「特別に仲の良い異性の友人」ができて、その相手を少しばかり「教育」したため、正義感に駆られた王太子に嫌われ、婚約破棄される――……
そしてそこからは国外追放されて破滅するという、幸せなおとぎ話の中の悪役の姿。
自分はその悪役令嬢に転生する――そして婚約破棄されて、祝福された人生を失う――ならばこの場面をトリガーにしようと、前世の自分は考えた。
この場面で、前世の記憶を取り戻すように。
そして、数多あるスキルの一つを、この瞬間に取り戻すように。
(……成功、した……)
――賭けに、勝った。
アンリエッタは微笑を浮かべながら、王太子を見つめる。
一瞬怯んだような顔をする王太子を――婚約者に再び微笑みかけ、意識を手放して床に崩れ落ちた。
悲鳴が聞こえる。
ざわめきが聞こえる。
戸惑いが聞こえる。
それはまるで祝福の鐘のようだった。
◆◆◆
アンリエッタが目を覚ましたのは、静かな部屋のベッドの上だった。
地下牢ではない、王城内の普通の部屋。食事さえ運ばれてくればここで何日でも過ごせるだろう清潔な場所。
部屋には誰もおらず、アンリエッタひとりだけだ。アンリエッタの侍女すらいない。ドレスもそのまま。髪もそのまま。
おそらく、断罪劇の途中でアンリエッタが気絶したため、扱いに困ってひとまずここに放り込まれたのだろう。よくよく部屋の中を見てみれば、窓には鉄格子がはまっている。逃亡や身投げを防ぐためだろう。
そして扉は、中からでは鍵を開けられない構造をしている。
いわゆる軟禁状態。
(ここは、貴賓用の牢獄ね。まさか、わたくしがここに閉じ込められるなんて)
王太子の婚約者だった公爵令嬢アンリエッタ・アグスティアが。
おかしくておかしくて、笑いが込み上げてくる。
だが、ちょうどよかった。ここなら落ち着いて考えごとができる。
目覚めたことを外部に気づかれないように、静かにベッドに横たわったまま考える。
――それにしても、頭が痛い。
記憶が一度に押し寄せた余韻がいまだに響いている。怪我の後の傷口のように。
(寝ている間に全部思い出せたわ……わたくしの前世……)
前世のアンリエッタは世界最強の大魔女アルティナだった。
魔術・錬金術・神聖術――あらゆる神秘に精通し、時間と肉体の限界を超越して不老となり、人生を思う存分謳歌していた。魔王と恐れられることもあった。
――だが、竜に殺された。
世界の調和を重んじる竜に、危険因子と見做されて殺されてしまった。
(やりすぎちゃったのよね)
最強の魔女も、秩序そのものには勝ち切れなかった。
何せ、相手は世界そのもの。
そして、命を失う寸前に、自分に転生術を用いた。転生術では引き継げるスキルは一つだけ。ならばこれを選ぼうと、前世の早い段階から決めていた。
スキルの名は【錬金術の極意】――
アンリエッタは静かに起き上がり、シルクのシーツに指で触れた。
(このままだと行きつく先は追放刑。わたくしが追放されるなんて、冗談じゃないわ)
聖女である男爵令嬢を虐げた罪で国外追放――死刑と同等の罰である。
普通の令嬢なら、何の護衛も庇護もなく外に放り出されれば、ほどなく死ぬ。
ばかばかしい。
公爵家の令嬢である自分を処刑だなんて、レオナード王太子は恋の熱病に頭をやられてしまったのだろう。結婚相手を替えるにしても、もっと穏やかな方法があったはずなのに、最悪のルートを選んでいる。
恋の病の症状が深刻なら、王と公爵が帰国するまでに処刑してくるだろう。
――アンリエッタは魔女だったのだから処刑は当然。この心優しく素晴らしい女性である聖女エミリアこそ我が妻に相応しい、とでも弁明するのだろう。
(何が聖女よ。神聖術の一つしか使えないのに。まったく、殿下も誰に唆されたのかしら。まあ、お父様も政敵が多いものね。もうどうでもいいけれど)
もうどうでもいい。
いまのアンリエッタなら、あらゆるものをひっくり返すことができる。
聖女とやらの化けの皮を剝がすことも、王太子の心を取り戻すことも可能だろう。
だが、もう、そんな未来は望んでいない。
(王太子妃争いに負けた女と白い目で見られるのも、畏怖されるのもまっぴら。馬鹿な王太子殿下にも未練はないわ)
いまのアンリエッタにこの王国は、この舞台は狭すぎる。
アンリエッタはドレスの刺繍に使われている『アラクネ糸』に手を触れ、体内に流れるマナを意識する。
【錬金術の極意】
――サブスキル発動――
【即興レシピ】【材料効率化】【魔力織り】
(シーツのシルクとアラクネ糸をマナ融合させて……アラクネ糸の材料とエレメンタルを最大効率化、魔力を織り込みながら――)
アンリエッタの錬金術によって、シーツとドレスの刺繍糸が、星明りの祝福を受けたように光りながら混ざり合う。
そうして、新しい錬金物が完成する。
(――『隠形マント』完成。よし、これで気配をばっちり隠せるわ。さて次は――)
窓際に行き、カーテンを開いて鉄格子に触れる。
金属の成分を分解して少しだけ拝借する。鉄格子の成分が抜き取られて脆くなってしまったが、誰かが無理やり壊そうとしない限り影響は出ない。
そして花瓶に活けられた生花を手に取る。
【錬金術の極意】
――サブスキル発動――
【即興レシピ】【素材変換】【融合】
鉄と植物の生命力――本来相容れぬものが融合し、アンリエッタの前に鍵が現れる。
(できた! 『擬態する鍵』――これを使えば扉を開けられる、けれど……)
部屋の外には見張りがいる。『隠形マント』で気配を完全に隠したとしても、不自然に扉が開いて中に誰もいないとなると大騒ぎになる。
アンリエッタは『隠形マント』を被ってから、水だけになった花瓶を手に取り、部屋の隅に寄せた。ついでにカーテンや残りのシーツに【耐久力強化】を付与してから花瓶に被せる。
【錬金術の極意】
――サブスキル発動――
【エレメンタル還元】【エレメンタル変換】【変化加速】
水をエレメンタル――世界を構成する最小物質に戻してから、火のエレメンタルに変換する。そして、その変化を最高速にまで加速させ――
爆発。
小規模な爆発だ。耐久力を上昇させた布を被せたので、花瓶の破片の飛散は抑えられている。
それでも、音と衝撃は充分だった。
爆音が響き、衝撃で部屋が揺れ、火の匂いが立ち込める。
慌てて外から扉が開き、見張りの騎士たちが何事かと入ってくる。
アンリエッタはその隙に、扉の陰からするりと部屋を抜け出す。
誰もアンリエッタに気づかない。「アンリエッタ様がいらっしゃらないぞ!」とアンリエッタの背後で焦った声で叫んでいる。
アンリエッタはくすくす笑いながら、城の中を自由に移動した。
城の構造はよく覚えている。封鎖されている扉は『擬態する鍵』で開き、城の外へ抜け出した。
最後に一度だけ振り返る。
おそらくもう二度と目にすることのない城を見つめ、再び前を向く。
ほんの一瞬の、そして一生の決別――に、しようとして足を止める。
(やっぱり、このまま国を捨てるのは癪ね……)
未練は一切ないが。
(やられっぱなしというのは気に入らないわ)
――誇り高き公爵家の娘として。
(――よし。やるべきことをやりましょう。あくまでも、華麗にね)
アンリエッタは微笑を口元に浮かべながら、足取り軽くアグスティア公爵家に向かった。