第六話:渡る世間に鬼はない
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十五年前………夏。
いつにも増して茹だるような七月猛暑の照りつく太陽の下で。
そんなことは無用と言わんばかりに、今日もせわしく作業は続いていた。
土地の余した街外れの、素朴な大工工事である。
しかし、そんな変わりのない忙中でも、一つ、怠慢なものがあった。
1人の若々しい男が、そんな慌ただしく手を動かす者たちの間を縫い分けて、ぶらぶらと行く手定まらず歩いていたのだ。
若い男は、暫く右往左往さまよったのち、彼よりいくらか年の功のある三十代半ばほどの男の前で歩みを止めた。
「すみません。ただいま参りました!」
声を掛けた相手は、周りの者たちと同様に作業着を身に纏い、その手にはヘルメットを持っていた。
「おう。あんたが例の新入りか。遅かったな」
「今日からここで働かせていただく若林健です。昨夜は色々ありまして…申し訳無いです」
「まぁ別にいい。勤務初日だからそこは大目に見てやるから」
細々とした自身と比較しても、いくらかがたいの良いその男は、見てくれに反して思いの外、物腰柔らかで寛容なようだった。
「あなたが僕の面倒を見てくださる方ですか?」
「いいや、オイラじゃねぇな」
違う?…なら良かった。僕は遅れてしまったが、上司の方も遅れているのならそれは有り難い。
それにしても"オイラ'?…
自身のことを、たしかに"オイラ'と言った男は鈴木と名乗った。
「それより新米、ヘルメットはどうした?」
「あぁ…忘れました。やっぱり上から物とか落ちてきて危ないからですか?」
「いや、少し違う」
そのときだった。
地に黒い影が下りると共に、頭上へ何やら鉄金属のような重いものが振り下ろされる。
『ゴツンッ!』
そうして、鈍い音を立てて頭蓋は強い衝撃を受け、そのまま若林は白目を剥いて地面へとぶっ倒れた。
「おいお前ら!仕事中に何をべちゃくちゃ喋ってるんだ?!さっさと作業にかかれ!!」
続け様に、今しがた新入りに指示を仰ごうとしていた鈴木にも同じ所業を行おうとしたが、彼は新米より一枚上手だった。
鈴木は寸前、『叩いて被ってジャンケンポン』の要領で、ヘルメットを翳して金槌を見事に防いだ。
とはいえ一命は取り留めたものの、たといヘルメット越しだったとしても強い衝撃と振動を受けたのは確かである。
鈴木の頭がグワングワンと揺れる感覚がしていることが、何よりの証拠である。
どうやら鬼の居ぬ間に事を済ませようとしたのが間違いだったらしい。
「すみません鬼松さん、新入りに色々と教えてまして…」
鈴木は頭をさすりながら言った。
「そうだった!…で、その新人はどこにいるんだ?」鬼松と呼ばれた屈強な男は尋ねる。
「初日から遅れてくるなんてけしからんな。一発ぶん殴って叩き直してやる」
「その新米なら今、鬼松さんが打ちのめしましたぜ?」
鈴木は横たえている新米を指さした。
「おぉ!…そんなところにいたのか。おい、何寝ているんだ?起きろ!」
彼は、身を案じるどころか重症な新人に怒声を浴びせた。
しかし、当然ながら新人が目を覚ます様子は以前として無い。
「ほぉ。今度は無視か。お前は新人にしてはずいぶん肝が座ってるじゃねーか。勤務初日に遅刻して居眠りして、おまけに無視か」
鬼松は意識のない眠り人に話し掛け続けた。
「気に入った!お前みたいな肝の座った新人は初めてだ」
腹に据えかねたかと思われたが、存外、何故か勝手に気に入られたようだった。
「もう死んでると思いますよ?」
鈴木は見兼ねて言った。
「どうしてだ?」
「人なら誰だって金槌なんかで頭を直接叩かれたら…生きてるほうがスゴいですよ」
「そうなのか。人間てもろいな」
鬼松は感心したように言った。
「鬼松の兄貴が人間の中でも異例なんですよ」
「それよりどうするんだ?作業中に死人が出たぞ?どう責任を取るつもりだ!」
「えぇ!…オイラが責任取るんですか?」
鈴木は仰天した。
「当たり前だ。お前らが仕事中にくっちゃべっているから悪いんのだろう?」
「でも手を下したのは鬼松さんです」
「俺はただ仕事中にお喋りしているろくでなしに喝を入れただけだ」
ろくでなしは悪びれず言った。
「そうだったとしても、仕事中に死者を出したのなら、それは監督不行届で鬼松さんの責任ですぜ?」
「でも俺は不行届監督なんて名前じゃないぞ」
「違いますよ!現場の事故は監督不十分ってことで、作業監督の責任になるんです」
自分の上司の阿保さ加減に呆れ返りながらも、彼に説明を施した。
「何だって?!そんなの不公平じゃないか!じゃあ俺はを今辞める!」鬼松は不平そうに唸った。
「無茶言わないでくだせぇ!…それに、もし鬼松さんが棟梁を辞めたら、誰に務まるって言うんです?」
鬼松は辺りで未だ慌ただしく作業をしている部下たちを見た。
そして目の前の鈴木にも一瞥してから言った。
「それもそうだな。ここにいる奴らは俺以外、腰抜けの集まりだ。俺以上の適任はいない」
「じゃあこの事態をどうにかしてください」
「そうだなぁ…とりあえず事故死ってことにすればいいんじゃないか?」
鬼松は頭を捻ってから、よりにもよって最も良くない方向性の考えを導き出した。
「新人の頭上にちょうど良く金槌が落下してきて、頭を打ったってことにするのはどうだ?」
「…それは難しいんじゃないすか?そんな運が良いこと…いや、運が悪いことが起こるというのは信じ難いでしょう」
「じゃあどうすればいんだ?」
「警察が来ました」
「何だと?!一体誰が警察なんか呼んだんだ!」
彼は鈴木を睨んだ。
「鈴木、お前は俺を裏切ったのか?」
すると鈴木はその炯々とした眼光に見入られ、額を汗に湿らせて反論した。
「いえ、違いますぜ!それに、ここにいる従業員たちも…。警察を呼んだのは鬼松さんでしょ?」
「お前は今、俺が携帯を取り出して電話するところを見たのか?」
「いえ。見てはいませんが、聞きました」
「聞いたって…誰からだ?」
「鬼松さんからですよ!昨日です。正確には昨夜…」
鬼松は覚えが無いようで、視線を空によぎらせた。
「そんなことは知らん!…それよりどうするんだ…こいつ死んじまったぞ?」
「…僕は生きてるよ」
すると、2人の下から掠れた声が聴こえてきた。
「おい鈴木、お前いつそんなに声変わりしたんだ?」
「いえ、オイラじゃないですぜ!」
鈴木は自分の顔の前で手を振った。
「…じゃあ誰の声だ?」
「僕です。若林です…」
見下ろすと、そこには一部を赤く染めた頭を抑えた新人が横たわっていた。
「おい鈴木。どうして死人がしゃべっているんだ?」
「死人はしゃべれないでしょう?…死人に口無しです」
やがて2人の警察が彼らの元まで歩み寄ってきた。
そしてその内の1人が、鬼松を見て告げた。
「昨夜、自宅で何者かが妻と息子さんを殺害したという報告を受けて、参りました。あなたが"石松大貴'さんですね?」
警察は哀れみを含んだ調子で、深刻そうに尋ねた。