第五話:鬼との会食
転校生のやって来たその日、待ちに待った昼食の時間がやって来て学食へと向かった僕と美来乃。
列を並ぶ常識すら持ち合わせていない不躾な美来乃に面食らいながらも、長い列を並び続けて目前で、財布を教室に置いてきたことに気づいた僕だった。
完全にやらかした。やってしまった。
規格外の転校生に翻弄されてしまったのかもしれない。
いや、それを彼女のせいにするのはどうかと思うが、今から列を抜けて財布を取りに行くというのは実に気の遠くなる話だ。
元々最後尾だった僕らも今は先団で、後方には新たな生徒たちによる長い直線が引かれている。
「財布を忘れたって?」
目下の事態に慌てていると、僕等の前に並ぶ松井が問いかけてきた。
「あぁ。教室にある鞄に入れたままだ」
「それはドンマイだな。悪いが、俺は貸せねえよ?金欠で財布に数百円しか入ってないんだ」
そう言って松井は自分の分の食事を買うと、そそくさと食堂を後にして教室へ戻ってしまった。
財布を取りに出直して、再び並び直すしかないかと諦めかけたその時、僕の目の前に並んでいた美来乃が、何も言わず弁当を二つ手に取ったのだった。
これには僕も驚かされざるを得なかった。
礼儀も常識も知らぬ彼女が、このような人の温情を持ち合わせていたなんて…
正直ただの変人としか思っていなかったのが申し訳ないほどに、彼女のことを少し見直した。
それも、並ぶメニューの中では一際立派で、ボリュームのある、"スペシャル定食'と書かれた弁当を手にしている。
「そんな豪華なものじゃなくていいのに」
「オレの金なんだから何を買うかはオレの勝手だろ?」
彼女は案外太っ腹らしい。それとも、単に金遣いが荒いだけなのだろうか。
「でも流石に奢ってもらうのは申し訳ないよ。財布は教室にあるから、戻ったら返すよ」
「奢る?何を言っているんだ」
「え?」
狐につままれたような思いで、僕は間の抜けた声を上げた。
「これは二つともオレが喰うんだ。なに勝手に奢ってもらえると思っているんだ?」
それを聞いて、僕は少々顔を赤くした。
「二つも食べるのか?それだけの量のスペシャル定食を?!」
女の子でそんなに食い意地が張っているというのは珍しいと思ったが、すぐさまその驚きは打ち消された。
一括に女の子とは言っても、美来乃は例外であり、彼女ならあり得るかと思ったからである。
「美来乃は欲張りだな」
「うるさい。オレは食欲旺盛なんだ。それにあの図体のデカい強そうな奴に負けてられないからな!」と彼女は意気込んで言う。
八木橋のことだろうか。相変わらず彼女の中には、
『デカい=強い』という非公式な公式が成り立っているらしい。
「もしお前が昼食代を借りたいというのなら、貸してやってもいいぞ?」
そう彼女のほうからこちらが本意なことを言ってきてくれる。
「ほんとか?!」
「あぁ。ただし、金は返してもらうぞ?一倍でな!!」
そう言って彼女は四百円のハンバーグ弁当を無作為に選び出すと、自分のスペシャル弁当二つと共に支払いを済ませた。
「あ、うん。お金はもちろん返すとも!助かるよ。ありがとう」
「ええとあれ…こういうとき何て言うんだっけ?」
「"どういたしまして'でしょ?」
美来乃の問いに僕が答える。
「そう、それだ!」
こうして僕は、寛大な美来乃様のお陰で、なんとか列の並び直しを免れることができたのだった。
本当に美来乃様々である。なんて気の利いた人情溢れる転校生なのだろう。
教室に戻ると、美来乃が買ってくれた弁当を受け取った僕はすぐさま、自分の分の代金である、百円硬貨を四枚彼女に差し出した。
「どういうつもりだ。これでは足りないぞ?」
彼女は僕の掌に載せられた四百の白銅を不満気に見つめている。
「いや、そんなことはないよ。値段はたしかにこれで合っているはずだ」
「オレは"倍'で返してもらうと言ったんだぞ?これじゃあ元の値段と同じじゃないか」
「それは違うな。君はさっき"一倍'でって言ったんじゃないか。そうだったよな松井?」
美来乃とは反対側の隣席に居る松井に同調を求めた。
「そうだったか?覚えてないな」
松井は上の空らしい。
「そうだが?一倍なんだから、四百円の倍の八百円のはずだろ?そうすればオレが貸した分の金額も返ってきて、利益も得れるっていう魂胆だ!」
美来乃は鼻下をこすって得意げに言った。
「"一倍'っていうのは、元の数量一つ分ってことだぞ?
だから僕が美来乃に払うのは元値と変わらないってことだけど」
「え?そうだったのか!?倍って言っているのに?!」
「お前も義務教育受けてないのか?…」
僕は元値の金額だけを彼女に手渡して言った。
「小学校という場所には行っていたぞ?だがすぐ退学になった」
「義務教育下の小学校で退学ってどういうことだ?…
一体何をしでかした?」
「オレのことを笑ってきた奴にもう笑えないように口にセロテープを貼ったり、教諭にかみついたんだ」
彼女は嘘のような小学生時代の体験談を淡々と話した。
「…よっぽど素行が悪かったんだな」
「…それから色々あってなんとか中学校に入ったんだが、何度も転校する羽目になった」
「マジかよ。じゃあそれでここにも転校してしきたわけか」
「そんなに驚いてやるなよ。それなら似た者同士じゃないか。お前も転校してきたんだから」
松井が横からを口を挟んだ。
「そうなのか?」美来乃の僕を見る目の色が、まるで同士を見るような親近感のそれへと変わる。
「おいおい。そんな似た者同士みたいな視線を向けるな。言っておくが、俺はなにも素行が悪くて転校したわけじゃないぞ?家の事情だ」
「家の事情?…」
「引っ越したんだよ。それより気になってたんだが、さっき言ってた"かみついた'ってのは教師に食ってかかったってことか?それとも物理的にか?」
「物理的に教師の腕に噛み付いたんだ。鬼のとき以来、喰ってなかったニンゲンの肉を久しぶりに喰ってみたいと思ったんだ」
物理的には駄目だろ。そりゃ退学になる訳だ。
「だがこのニンゲンの歯では無理だった」
「それは良かった。じゃあ今は僕たち人間の食べる食事は喰うことができるのか?」
「あぁ。ニンゲンの食す飯も、これはこれで悪くない」
「とりあえず食べてみろよ?この学校の学食は悪くない」
そう話を進め、各々は食事に取り掛かった。
箸を手に美来乃が買ってくれて一倍で返したハンバーグ弁当の蓋を開ける。
そして僕は自分の顔の前で手をぴったりと合わせて言った。
「いただきます」
松井は手も合わせずにすぐ箸を持って食べ始めた。
美来乃は手を合わせるどころか箸も持たず、弁当の具材を豪快に素手で掴んでそれを口に次々と頬張っていた。
とても女子中学生とは思えない、教養の無い野蛮な彼女の姿を目にした周囲の生徒たちは引いている様子。
手にはソースやらおかずの油やらでギトギトに汚れている。
さらにその手をぺろりと舐めたのが、彼女の行儀の悪さをより際立たせた。
「美味いな。この生姜焼きというのは甘みがあってどことなくニンゲンの肝臓に似ているし、こっちのチーズ入りはんぺんは脳味噌のようにフワフワしていてクリーミーだ」
「やめろよ。食欲がなくなる」
僕はミンチにされた牛の肉塊を口へ運んだ。
「肝臓って甘いのか?」松井が反応する。
「松井もそこに興味持たなくていいから」
美来乃がカニバリズム的なとんでもないことを口走ったが、幸い周りの生徒たちは冗談半分としか思っていないようだった。
とはいえ、松井を除いて生徒たちは顔をしかめていた。
「それよりも鬼って人を喰うのか?」
「まぁそれは鬼の好みだな。人を好んで食べる人喰い鬼もいれば、まったく食べない鬼もいる」
「好みなのか」
「基本的に人を喰う鬼は食い意地が張っているな」
「そうなのか?じゃあ僕は大丈夫だな。食べるところがないから」
僕は自嘲気味に肉付きのない腕を広げて見せた。
「それよりさっきのあれは何やってたんだ?」
美来乃は手を合わせる動作をした。
「知らないのか?あれは食べ物に対して感謝を伝えているんだ」
それを聞いた彼女は途端に吹き出した。
「何も面白いことは言ってないと思うんだけど…」
「たかが食べ物なんかに感謝を伝えるのか?」
「あぁ。食材の"命'に向けてな」
「それでその"いのち'ってのは"どういたしまして'って返事してくれるのか?」
「いいや、そんなことは勿論あり得ない」
「そりゃあそうだろうな!食べ物は所詮食べ物だろ?感謝の言葉を言ったところで伝わりはしないさ」
「そういうことじゃない。伝えるんじゃなくて、思うことが大事なんだ。ほら美来乃もやってみて」
彼女は納得いかぬような顔を浮かべていたが、僕に促されて一連の所作を真似た。
「…いただきます」
その抑揚からは、とても食べ物に感謝しているようには思えなかったが…。
隣の席に転校生を迎えた昼食の時間は、いつもより騒がしかったが、同時に賑やかでもあった。
偶にはこういう心地の良い喧騒も悪くないのかもしれない。
「なんとか今日一日はやり過ごせたみたいだな?まぁその調子だといつ転校になってもおかしくはないけど」
「おい嘘だろ?!またオレは転校させられるかもしれないのか?」
「転校にならないためにも、これから気を付けていかないとね。僕もできるだけ手助けはするから」
僕は自分が自然と笑っていることに気づいた。
「そういえば名前をまだ言ってなかったよな?」
「だからミラだと言っているだろう」
「いや君のじゃない。僕のだよ。君の名前は何度も聞いた」
僕は今更ながら名乗った。
「僕は五十嵐零。これからもよろしく。ミラ」
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そう言って表情に人当たり良さそうな皺をつくって、片目には眼帯、腕にギプスを嵌めている彼はこちらに手を差し向けてきた。
それも不可解なのが、その男は手の自由な右腕ではなく、態々包帯に巻かれているギブスを嵌めた方の腕を向けたのだった。
何か意味でもあるのかと思ったが、さして考えないことにした。
「あぁ…その前にその汚れた手をどうにかしてくれないか?」
「あ?…あぁ分かった」
ミラは自分のタレや油で塗れた手を服で拭いたため、白シャツのぬぐった部分が少し黄ばんたように変色した。
それと共に、彼も顔色が変わったように見えたが、ミラは構わず出された腕と逆の右腕を出す。
「ええと…腕を変えてくれないか?」
「なんで変えなければならないんだ?」
「相手と同じ腕を出さなければ握手はできないからだ」
「でもおまえも右側の手を出してるぞ?」
「ミラから見たら右かもしれないけどこれは僕の左手だ」
「見る者によって右が左になったり、左が右になったり横が前になったりするのか?」
「まぁそうだな…」
「ちょっと待て。どういうことだ?…相手から見て右がオレから見れば左で、オレがもし右を向いたらさっきまでの正面が左になって、でも相手から見れば右が左で左が右で………???」
考えれば考えるほど、増々分からなくなる一方なので、これ以上考えることはやめにした。
ミラは言われた通り腕を変えると、彼の手を握った。
華奢そうなその体型からは考え難い、その手触りはゴツゴツとしていて、まるで鬼のように頑丈な腕だった。
" ニンゲンと手を結ぶ。'
初めてのはずなのに、零と名乗った彼の左腕は、どこか懐かしいような、前に何度か触れたことのあるような気がした。
握手をするなんて何百年ぶりだろうか。
最後にしたのはミラがまだ鬼だった頃のことだろう。
今から十五年前になるか……。
ミラが鬼から鬼ではなくなったあの日、意識を失ってからその後、どうなったのだろうか。
少なくとも今のミラは、安寧の中でそのことを深く考えないでいられたのだった。