第一話:鬼生さよなら(後編)
子の言葉に呼応するように、先程まで音のしてこなかった下の階から不安を纏った誰かの声が返ってくる。
「やっぱり下にも人間がいたみたいだな」
セシルも承知の上だったらしい。
恐らく今の一声で、一階で寝ていた親が目を覚ましてしまったのだろう。
どの道すぐ子の窮地を察した両親が、此処へと駆けつけてくる。
とはいえ、いくら数が増えようが、大人が来ようが
鬼のミラたちに何ら問題は無かった。
所詮、人間の微弱な抵抗は、我々鬼たちに何ら脅威とはなりえない。
あまつさえ、仮に大事に至ったとしても、人間如きが鬼を殺す術など何一つ持ち合わせていない。
それはミラの数百の経験上、未だかつて打破されなかった不変的な事実が物語っていた。
かくして、ミラは微温湯に浸かったような心持ちで高を括っていたのだ。
但し、そんな中で、唯一最深の注意を払わなくてはならないのは、"鬼ヶ島のルール'だった。
「ミラ、分かってるだろうな?人間は一人も逃がすなよ?」そうセシルが釘をさす。
「そんなの分かってるさ。でないと、鬼神様に怒られる」
それは、鬼たちの故郷である鬼ヶ島で生まれ育った全ての鬼が厳守させられる、鬼神の言伝である。
その中には、"人間に鬼の存在がバレてはならない'という決まりがあった。
そのためミラたちは、これに則って鬼の姿を見た人間はひとり残らず即刻殺すことを委ねられている。
我が身を見た者が死せず、他言して鬼の存在が露見することだけは避けねばならなかった。
「だったら、全員殺せばいいだけだろう?」
ミラはまるで無慈悲且つ冷徹に言った。
そうこう談話してるうちに、下の方から階段を登ってくる規則的なリズムの音が近づいてきた。
力強い勢いでドアが開かれる。
"鬼の食事会'に乱入してきたのは、ひとりの女だった。
「どうして…母さんが?」と驚いた様子でようやっと溢したのは、長男だった。
ミラたちに面と向かった母親の人間は、突然奇声を上げると、鬼のセシルへ無謀にも突っ込んできた。
未知の存在を前にして、自己犠牲的な猛威を振るって飛び込んだというのは、無謀と言えるだろう。
しかし、彼女が取った行動は誰もが傍から見ても、言わずもがな"母親'だったはずだ。
鬼という強大な捕食者に対しては実に非力な腕力を働かせ、セシルに組かかった。
そしてただ一声「逃げて!」と叫んだのだった。
後はひたすらに大声で叫び続けた。
「何なんだこの女!?」
セシルは掴まれた腕を振り払うと、その母親の腹部に強い打撃を喰らわせた。
「ヴゥッ!」
蛙のような、女性の声帯にしてはやたらと低い声を上げて、そのまま地面によろけて倒れる。
鈍い動きで身体を地面に這わせてから、子らの方に手を伸ばした。
―――それから程なくして、彼女は一切の一挙一動を見せはしなかった。
鬼の重い打撃は、人間の肋骨を軽く粉砕し内蔵を破裂させ、彼女を死に至らしめるのに優に足るものであった。
"この家の女親をセシルが今、亡き者に変えたのだった。'
「母さん!?…お前!よくも母さんを!!」
そんな様子を目前にした長男は、顔面蒼白の状態で激昂し、今しがた母の命を奪った鬼であるセシルへ繊弱なくせに突進しようとした。
しかしセシルと母の元よりも近場にいたミラが首根っこを掴み、そのまま羽交い締めにする。
「クソッ!離せ!!離しやがれ化け物が!」
抑え込まれた子供はジタバタと暴れる。
この直後、ミラに眠る悪戯好きの思考が頭をよぎったのは否定できない。
「化け物?…それは心外だな。ワタシたちは鬼だよ」
ミラは子の耳元でそう囁くと、その細々とした喉頸に手を掛けた。
そして、そのまま片手だけで子の首を力いっぱいに締めた。
それまで地についていた足が宙へと浮く。
狭められる呼吸器官に子はえずく。
先程からのミラの手を振りほどこうとジタバタさせていた手足の所作をさらに激しくして。
子は短い足をバタバタとさせてミラの足を蹴る。
それで抵抗のつもりなのだろうか。
ミラは腕に徐々に力を加えていく。
それに比例するように、子の唸る声がボリュームを下げていく。
過激な動作も、その力を失っていく。
そんな状態で、子は何かを言いたげに口元を動かした。
ミラは子の言い淀んだ言葉を聞くために、首を絞める力を少し弱めた。
「死ね」
その子供はそうほざいたのだった。
ミラはその瞬間、反射的に腕にぐっと力を込めた。
寸前にぼやかれた言葉に憤りを感じて。
再び苦悶の表情を見せる兄。
「…o"-u-a"-u-o-e-e-a"……」
絞り出した声でまた何かを言っていたが、今度はミラが腕の力の緩めることはなかった。
そのため、彼が終いに何を言っていたのかは、もはや本人以外知る由もないはずだ。
今まで頗る壮大だった動きが、子供の身体にかけられていた強い力が、ピタリと静止した。
「もう死んでるよ」
セシルにそう促されてミラはやっと腕に込められた力を抜く。
それと共に、子供の兄の肉体は重力に逆らうことなく地へと引かれ、地面に叩きつけられる。
"ミラは長男である子供を今なきものにしたのだ。'
「あれ?…もう死んじゃったのかぁ。人間て脆いね」
ミラが間の抜けた返事をする。
ただ、そんなヒトに対する無知からなるミラの無情な発言にも、どこか皮肉めいたものが込められていた。
ミラは少々苛立っていたのだ。
といっても、ミラはそんな煩わしさのワケが判然としなかった。
確かなのは、兄の言い放った戯言がやたらとミラの心を抓るような感じがしたということ。
まるで死しても尚、息吹を感じさせるような、心中でミラの感情を掻き立てるような、そんな心掛りがあった。
そのワケをはっきりさせようとしても、ミラは考えることが嫌いで、又そのような習慣もなかったので、兄の子供が言った妄言を考えることはやめにした。
ある意味をもって、兄の子供が吐いた放言は、非力な彼ながら唯一のミラに対する攻撃として、祈願の言霊がかなったのだった。
ミラはモヤついた悪感を振り払おうと、食を営むことに乗じて気持ちを切り替えようと考える。
部屋内は先程までの、けたたましい空間がまるで嘘のようにシンと静まり返っていた。
残された幼い方の子供は、座り込んだ状態で母親のことをただじっと見つめている。
「よし、これでやっと落ち着いてゆっくり食べられるな!」
しかしセシルが首を横に振る。
「いや、まだ一階に誰かいるかもしれない。念のため下を確認しておいたほうが良さそうだ」
鬼と人間の混同するこの異質な一室の地には、
『立ち・二、座・一、寝・2』の生き物たちがいた。
今ここにいる人間は母親とその2児とで計3人だが、一階にまだ寝ている者がいる可能性は否定できない。
「そっかぁ。じゃあセシルが確認してきて〜」
ミラが鬼任せに言う。
「えぇ〜!ボクがぁ?!」
セシルは嫌そうに言ったが、それ以上何も言わず階段を降りていった。
長年の付き合いで、強情なミラに物言するのは時間の無駄だと判断したのだろう。
ミラはやっと食にありつけると喜び、横たえる兄の子供の元に屈み込むと、口を開いた。
全体的に鋭利な牙を揃える中、より突出しているのは、まるで八重歯のように鋭く尖った二本の下歯である。
この歯で、人間の頑丈な骨をも噛み砕くのだ。
食事に口を付けようと顔を近づけたところで、
セシルの呼ぶ声が下から聞こえてくる。
「たくっ…なんだよ!」
ミラは不平を言いながらも仕方なくその場を立つと、転がった2品の料理を避けるようにしてドアまで向かった。
ドアの先は夜であるからに、暗くどこまでも闇が続いていて、その先にかね折れ階段が下に伸びていた。
暗い足取りの中、鬼の夜目を利かせて階段を下る途中、一階から声が聞こえてくる。
セシルの言った通り、まだ一階に誰かいるようだ。
「……金槌はどこだ?!」
そして咆哮のような低い大声が階段内を反響しつつ下から駆け上がってきた。
声からして、セシルではない。
そして勇ましく威勢のある力強い声。
甲高い子供らの声より一層低温なその声から、大人の男であることは間違いない。
父親といったところか。
となると、親子含めて4人の料理があるということになる。
中年の男となると、味はあまり期待できないが、女子供の食材と比べ、歯ごたえがあることは確かだ。
人間が4人もいるのなら、セシルと2人ずつで分けるとしよう。
父親の方は試食してみて美味ければ喰って、不味ければセシルにあげるか…
そんなことを考えながらミラは最後の段を降りて、照明の消えた中、一つだけ明かりの点いている光源を追って部屋へ入った。
そこで目にしたのは、部屋の真ん中で地に伏したセシルの姿だった。
呆気にとられて、想像だにしなかった光景を暫く目に刻んでから、倒れたセシルの元へと駆け寄る。
「セシル!一体何があったっていうんだ?!…」
ミラがセシルの身体を抱き寄せると、セシルはミラの顔を見上げて、拙く途切れ度切れの声でこう告げた。
「ミラ…気をつけろ!…あいつは…鬼だ…」
その時、背後に殺気のある気配を感じ、咄嗟に振り返って目に飛び込んできたのは、所々穴や破れの見受けられる作業着のような服に身を纏った大男。
そして次に、その男の剛腕が振り下ろされ、ミラはギリギリのところで片方の腕を前にして防ぐ。
「ヴッ!」
金属のような重みのある強い衝撃が、ミラの腕に伝わる。
男の手には金槌が握られていた。
「お前がセシルをやったんだな?」
ふと自分の腕を見ると、心做しか薄っすら青く痣のようになっていた。
その部分がジンと痛む。
「こんなの痛くも痒くもないね!」
しかしミラは虚勢を張った。
ミラは手負いの腕をもう片方の腕を添えて、動かしてみる。
決してまだ使い物にならないわけではない。
ミラと男は向き合う形となる。
ミラは俊敏な動きで真っ向から飛びかかった。
そして、男の筋肉質な実にたんぱくのある腕に噛み付く。
鬼の備えた鋭い牙は、たとい皮の厚い硬質な男の腕の皮膚さえ申し分なく通す。
爪による斬撃。鬼の優れた運動能力による強力な打撃。
何れも鬼のミラが取れる常套手段だったが、真正面から噛みつきに行ったのにはそれなりの理由がある。
それは、人間の血を接種して先の金槌による腕へのダメージを治癒しようという魂胆であった。
これが悪手だった。
ミラがつけた咬み傷。
そこから血が口内へと流れる。
「ヴェ!…マズッ!!」
ミラは思わずそう叫んだ。
舌先から痺れるような感覚が走った。
と同時に、吐き気を催すほどの嫌悪と不快感がミラを襲った。
第一に吐き気、次に不快感、次に寒気、次に激痛。
そんな多種多様な苦が、同時多発的に身体中を巡って伝導する。
ありとあらゆる体の器官がが拒否反応を訴えているように感じた。
まるで鬼が決して口にしてはならない禁断のものを、手に付けてしまったかのような…
そんな形容が、決して飛躍でないことはそれらの事象がありありと証拠づけている。
立ち上がるどころか動くことすらままならない。
ミラは自分の身に何が起きたのかも分からぬまま、よろけるように前のめりに倒れ込んでしまった。
そして次の瞬間、後頭部に衝撃が打ち付けられる感覚があった。
頭蓋を叩き割るように。
何度も。何度も。
脳震盪を起こしているのか、ぐわんぐわんと揺れる感じがした。
ミラは何とか足掻こうと、すぐさま体勢を立て直そうとするも、男の血を口にしてからの謎の苦と、鈍器による脳への衝撃の連続が身を制す。
さらに、立ち上がって抵抗しようという試みを防ごうと、男がミラに馬乗りになった。
そしてそのまま、一連の所業をまるで作業のように、機械的に繰り返し、打ち付け続けるのだった。
ミラは嗚咽と喘ぎ声を上げた。
抵抗する余裕など無い。できたのは、精々苦しみに耐えることくらいだった。
意識が朦朧とする中で、記憶の断片が走馬灯のように映し出される。
今まで、幾度となく地に這いつくばる人間を見下ろしてきたミラだが、今見下ろされているのはミラの方だった。
そんな現状に当惑しながらも、事態の収集をつけようと次々に疑問が脳内へと浮かび上がってくる。
何故鬼である自分が人間を前にダメージを受けているのか。
文字通り苦痛を味わっているこの血の味は何なのか。
あのミラが手に掛けた年長の子供が言った断末魔に感じた違和感は何だったのだろうか。
この男は何者なのか。
セシルは無事なのだろうか。
自分はこの後どうなってしまうのか。
人間などという下等生物の雑魚相手に、何故敵なしの鬼である自分が為す術無く、地に伏せている?
溢れる疑問と湧き出る屈辱。
こんなことになんて思いもよらなかった。
まさか鬼の自分が人間に脅かされる時が来るだなんて…
しかしその油断こそが最大の大敵だ。
ミラは自らの強さと経験によって、身を滅ぼしたのだった。
一階のフロアでのたうち回りながら悶絶するミラ。
ミラにとって最も辛かったのは、鬼という処遇からなる己の体の耐久性であった。
本来、人間などは一度頭に金槌などの鈍器を振り下ろされれば、即時に意識を失うだろう。
或いは死の淵を彷徨っても可笑しくない。
然れども、頑丈である鬼の体ときたら、そうとも叶わず、金槌で頭を打ち付けられる程度では、すぐに気を失うことは依然として無く、意識を保っていられた。
意識が遠のいては、鈍器で頭を打ち付けられて意識を覚醒させられ、常に苦痛を味わい続ける。
これなら、いっそ死んでしまいたい。
ミラがその刹那に、そんな思いもよらぬ思考を思い起こすほどに…
とはいえ、そんな永久的とも思える負の連鎖も、ミラの意識が再び戻るまでに間隔が置かれるようになる。
最初は一度きりで戻った意識も、二度頭を打ち付けられてやっと正気を取り戻すようになり、
次は三度、四度と数を増していく。
「ドガッ…ドガッ…ドガッ…ドガッ…!!」
ミラの頭を痛めつける打撃は止まない。
何度も。何度も。何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
――――それからどれほど経っただろうか。
やがてミラの意識も、とうとう再び呼び覚ますことは無くなった。
だがそれはあくまで、"ミラという存在'でというとに限る話である。
まだ遠くの方で、絶え間なく叩きつけられる重い音が微かに聞こえる中、視界が盲目に埋まれ、暗転した。
次に彼女が目を覚ましのは、"ミラであってもミラでない存在'になった時のことだった。
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☆★次回予告★☆
自身を鬼だったと名乗る奇人の転校生「月夜野美来乃」。
彼女がやって来たことで崩れ去る平穏な学校生活。訪れる波乱。
いよいよそんな、ありふれた学校とは異なる、ドタバタした異風な学校生活を送っていくことに!
次回もお楽しみを。