楽園の羊飼い
車窓の外、澄み切った大気を通して満天の星が瞬いている。だが今、星空を見て美しいなどと平穏な感想を持つ者が世界に一体何人いるだろう。イザヤ・レヴィは溜め息をついて長身を折り曲げ、停止した自走車を降りた。十二月の凍える夜気に首巻きを巻き直して背中は丸めたまま、駐車場から、ぽつんと聳える建物へ入る。星の町と呼ばれるミツペ・ラモンから五キロメートル西、ネゲヴ砂漠中央台地に建つワイズ天文台。イザヤが大学院生として籍を置くテルアヴィヴ大学所有のこの天文台も、二〇二三年初頭に発見された小惑星サタンの観測に全力を注いでいる。
二ヶ月後の二〇四六年二月十四日に地球に衝突すると予測されているサタンの直径は約五十キロメートル。恐竜を滅ぼした小惑星の三倍以上だ。核誘導弾による迎撃他、その軌道を逸らす多様な試みが国際的に行なわれてきたが、サタンの表面を削り、衝突角度を少々浅くしただけで、いずれも目的を達していない。現在の衝突予測地点はアメリカ州南西部。当該地域や周辺の人々は他地域や地下避難所へ避難しているが、衝突した場合、被害は全地球規模だ。当然、世界中で地下避難所が整備されているが、被害を最小化すべく詳細な観測が求められており、ワイズ天文台もその観測網の一翼を担っている。
「おそよう」
ふざけた挨拶にイザヤは顔をしかめ、後ろ手に扉を閉めた。薄暗い観測室の壁際、画像解析卓前に小柄な体で陣取っているのは同じ院生のヨナ・コーヘン。飛び級して院生になった十九歳の少女は、ひらひらと片手を振っているが、眼差しはAI搭載望遠鏡が映し出す画像へ向けたままだ。
「他の奴らは?」
イザヤは観測室を見回して問うた。常に四、五人が詰めているはずだが、ヨナしか見当たらない。
「夜食を買いに行かせた。途中で自走車がすれ違わなかった?」
あっさりと言われてイザヤはまた溜め息をついた。自分は二十六歳の心身ともに男性だ。何故わざわざ二人きりの状況を作るのか。
「すれ違っただろうが、おれは半分寝てたからな。それよりおまえ、もうちょっと男を警戒しろ」
「主が御覧になっているのに、不埒なことをするつもり?」
初めてまともに振り向いて、ヨナは栗毛を揺らし、小首を傾げる。暗がりの中、ぱっちりした両眼がイザヤを見据えた。
「そんなつもりはない」
三度目溜め息をついたイザヤに、ヨナは肩を竦めた。
「何だ、少し期待したのに。どうせ後二ヶ月か、生き延びても数年の命だから、経験してもいいと思ったんだけれど」
冗談にしても笑えない。絶望して破滅的な生き方をしている連中と同じ考え方だ。
「そうならんように、おれ達は観測して世界中と情報共有してるんだろう」
鞄を床に置きながら窘めたイザヤに、ヨナは冷めた口調で反論してきた。
「サタンの軌道は変わらない。衝突は避けられない。人間の多くは生き延びられないよ」
「じゃあ、何でおまえは観測を手伝ってるんだ」
眉をひそめてイザヤが問い質すと、少女は画面へ視線を戻しながら答えた。
「主の思し召し」
不真面目な言動の多い少女だが神のことはよく口にする。イザヤはふと尋ねた。
「主は、おれ達を救って下さるだろうか」
「異議申し立てをして審議中。なかなか難しそうだけれど」
とぼけた返事にイザヤは会話する気が失せて、自分も空いている画像解析卓の前に座った。ワイズ天文台にある五つの望遠鏡を統括するAIは、すぐに画面に情報を映し出してくれる。各望遠鏡の各焦点からの情報はサタンに関するものに絞られ、その軌道を表していた。至れり尽くせりだが、情報が示す結果はヨナの言う通り絶望的だ。宇宙望遠鏡も含むサタン観測網の全情報も共有されて画面の端に出ているが、示されている結論は同じ。我知らず四度目の溜め息をついたイザヤへ、少女が言葉を続けた。
「主を頼る前に、できることを最大限やってみる気は?」
「だから観測をやってる。おれに、これ以上何ができる? 軍に復帰して小惑星迎撃部隊に志願しろとでも? 今からじゃ訓練が間に合わん」
徴兵期間を終えたイザヤは現在予備役だ。
「あの軍備では、どだい衝突は防げない。それより、あなたにしかできないことをするべきだ」
ヨナは再び、真っ直ぐにイザヤを見ていた。
「おれにしかできないこと?」
そんな特技を持った覚えはない。聞き返したイザヤに、ヨナは珍しく深刻な表情をした。
「いずれ分かる」
短く告げた少女に詳細を訊こうとした時、扉が開いて他の院生達が戻ってきた。
「イザヤ、おまえの分も夜食買ってやったぜ」
「また物騒な連中が増えてたわ。ミツぺ・ラモンも、もう観光地としてはやっていけないわね」
「画面見てても嫌な気分になるだけだろ? 情報共有もAIがしてくれるし、故障がない限り暇なんだから、主に感謝して食事にしようぜ」
「ヨナも食べていったら? イザヤと交替でも、そのくらいの時間はあるでしょう?」
「ううん、疲れたから、もう帰る。ありがとう」
ヨナは足元に置いていた鞄を持って、さっさと立ち上がった。ミツペ・ラモンにある宿舎に戻るのだ。この天文台にも簡易宿泊施設は併設されているが非常用だ。現在この天文台で働く院生や研究者達は皆、ミツペ・ラモンの宿舎やホテルを利用していた。ミツペ・ラモンに自宅があるイザヤは例外だ。
「気を付けてね。さっきも町外れで変な奴らが警官と揉めてたから」
「うん、気を付ける」
素直に忠告を受け入れてヨナは扉から出ていった。イザヤが乗ってきた自走車で帰るのだ。会話が打ち切られたイザヤは、諦めてその背中を見送った。どうせまた明日の夜には出会う。その時に二人で話す時間を作ればいい。そこまで考えてイザヤは気づいた。まさか二人で話をするためにヨナは他の院生達を行かせたのだろうか。もしかしたら本当に真剣な話かもしれない。だがとにかく明晩話せばいいことだ。まだ自分達には明日がある。イザヤはそう結論づけたが、その「明晩」は訪れなかった。翌朝、別の院生と交替してミツペ・ラモンへ帰り、朝日に目を細めつつ自宅前で自走車から降りたところへ、別の自走車――否、暴走車が突っ込んできたのだ。振り向く間もなく宙に飛ばされたイザヤは、激しく地面へ叩きつけられ――。
「母さん……」
暗くなる視界の中、砂が舞う路面へ呟いて、イザヤは意識を失った。
◇
はっと気づくと目の前にヨナの顔があった。
「大丈夫?」
榛色の双眸が、じっとイザヤの目を覗き込んでくる。驚いてイザヤは身を引いた。自分はいつものように画像解析卓の前に座っている。ここはワイズ天文台の観測室だ。
「大丈夫……だ」
暴走車に跳ね飛ばされ、路面に叩きつけられた衝撃が全身に残っている気がしたが、どこも何ともない。
「夢でも見た?」
真顔で問われてイザヤは頷いた。寝言を聞かれたのだろう。
「どんな夢だった?」
重ねて問われて、イザヤは自宅前で暴走車に跳ねられたと語った。途端にヨナはくすくす笑う。
「やっぱり覚えているんだ。相変わらず、すごい魂だね」
その物言いには覚えがあった。どこかで――遙かな過去に――聞いた。あの大きな――ヨルダン川の岸辺で――。不意に眩暈がしてイザヤは俯き額を押さえた。
「それは夢ではないよ」
ヨナは静かに告げる。
「あなたは確かに死んだんだ。最近増えてきた物騒な連中――絶望した人間達の暴走車に撥ねられてね」
「――どういうことだ」
イザヤは俯いたまま尋ねた。
「あなたの魂が特別だという話。とりあえず寝転んだほうがいい」
ヨナは問答無用でイザヤを椅子から落とすように下ろし、床に仰向けに寝かせる。頭の下には膝枕をされた。普段なら断るのだが目が回って動けない。柔らかな手がイザヤの目を閉じさせた。伝わってくる体温が心地いい。
「あなたは魂に記憶を刻むという特性を持っている。だから覚えているはずだ。わたし達は今から二千年以上前、ヨルダン川で出会った。あなたはユダという名で、わたしはヨハネだった」
確かに、そうだった。ヨハネの姿が瞼の裏に蘇る。今と同じように不思議な雰囲気を持った、痩せて小柄な青年だった。そして自分はユダだった。ヨハネの言動に興味を持ち、けれど寧ろ喧嘩を売るくらいのつもりで、あの荒野まで会いに行ったのだ。ユダだった自分は孤児で相当に荒んだ性格だった。それがヨハネの言動に数日触れただけで彼に心酔し、離れがたくなっていた。
「――おまえは何者なんだ」
「自称は『羊飼い』だけれど、つまりは預言者だよ。但し、あなた達の信じる神は、わたしにとっては共同体だ。その共同体の思惑に従って、わたしは人間の誰かに憑依し、人間達を導く」
「『共同体』?」
神を貶めるような発言にイザヤは顔をしかめたが、ヨナは淡々と続ける。
「わたし達は、あなた達の言葉で言うなら、霊体だけの存在だ。そして、あなた達のような肉体を持つ存在の、魂を包む自我――精神力を糧として生きている。そもそもあなた達人間は、美味で栄養価の高い自我を持たせるために、わたし達が養殖している存在なんだ。わたし達は、この宇宙を創るところから始めて、あなた達のような存在を幾つも養殖している。中でも、あなた達は進化がうまくいって自我の強い存在になった。あなた達の自我は、とても美味しい。特にあなたの自我は甘い甘い匂いがする」
耳元で囁かれてイザヤは思わず首を竦めた。
「大丈夫」
ヨナはくすりと笑う。
「あなた達が生きている間は、わたし達はあなた達の自我を食べない。せいぜい舐める程度だよ。あなた達が死ねば魂から自我が剥がれ易くなる。わたし達はそれを食べるんだ。そうして浄化された魂は、生まれてくる命に勝手に宿り、また新たな自我を纏う。当然、以前の記憶は失っている。でも、あなたは例外だ。魂に記憶を刻む特性を持っていて、何があろうと記憶を保持したままでいる。本当に希有な魂だよ」
「――それが『おれにしかできないこと』か」
確認したイザヤの目の上から、ヨナがそっと手をどけた。瞼を持ち上げれば、笑みを浮かべた双眸と目が合う。
「そう。魂に記憶を刻むあなたの力を貸してほしい。わたし達は四次元に生きているから、こうして任意の過去に戻ってやり直せる。そしてあなたも、魂に刻んで記憶を失わないから、わたしとちゃんと話が通じる」
そもそも理解しがたい話が、更にややこしくなってきた。
「つまり、おれは、明日の朝に撥ねられて死ぬのに、その記憶を持ってるってことか」
「事実、そうだろう?」
「何で、そんなことになるんだ……?」
「魂はわたし達と同じで四次元のものだからだよ。あなた達の言葉で表現すれば、時間というものは宇宙と同期して球状に拡大していて、その中で魂は不定形の塊として在る。そして三万年とか四万年とか、ものによってはもっと広い範囲の時間に広がっているんだ。勿論、時間の拡大に合わせて大きくもなっていく。尤も、どんどん拡大する未来へ広がるのは、三次元に在るあなた達が遠方へ行くのと同じで大変だし、未開拓の部分が多いから開拓して広がる必要があるけれど」
難し過ぎる内容に、イザヤは端的に尋ねた。
「――それで、おれに何をさせたいんだ」
「小惑星二〇二三DW、通称サタンを地球に衝突させないようにしたい。ずっと人間達を導いてきたわたしの経験から言えば、共同体の見解は間違っているから。小惑星の衝突で、あなた達の魂を包む自我は美味しくならない。品質向上は望めない。そう異議申し立てをしているのに、なかなか理解して貰えないんだ」
「ちょっと待て」
イザヤは声を荒げる。
「サタンが地球に衝突するのは、おまえ達の――共同体の仕業なのか」
「そうだよ」
あっさりとヨナは認める。
「共同体は、これまでに何度もあなた達に試練を与えてきただろう? それは全て、あなた達の自我――精神力の品質向上を目論んでのことなんだ」
数多の預言者達が残してきた書の内容を思い返して、イザヤは暗澹たる気分になった。神は自分達を救ってきたが、苦難も与えてきたのだ。
「それで、実際にサタンが衝突しない時間を開拓して、共同体に分からせようと思っている。あなたには、わたしと一緒に何度でもやり直して衝突を阻止してほしいんだ」
さらさらと述べ、ヨナは真剣な眼差しでイザヤの顔を見下ろした。
「承諾してくれたら嬉しい」
何故それほどの力を持ちながら、わざわざ丁寧に説明して頼んでくるのだろう。不思議に思うが、そういう奴だったと妙に納得してしまう。ヨナが――ヨハネがどういう性格か、魂に刻まれているという記憶が教えてくれる。何より、やりたいことが一致しているのだ。イザヤは幼い頃に別れた母の顔を思い浮かべ、美しい榛色の双眸を見据え、頷いた。
◇
〈レヴィ中尉〉
手首に嵌めた端末から呼ばれて、イザヤは通路を行く足を止めた。残っている記憶のせいで違和感はあるが、レヴィ中尉とは自分のことだ。ヨナに言われたやり直しで十八歳に戻ったイザヤは、イスラエル王国軍に志願入隊した。二十六歳となった今は、航空宇宙軍の小惑星対策部隊に所属し、ミツペ・ラモン近郊にある、このラモン航空宇宙軍基地に勤務している。小惑星迎撃部隊ではなく小惑星対策部隊となっているのは、ヨナが過去に干渉したせいらしかった。
〈アメリカ州軍との合同作戦会議まで後三十分ですが、アヴラハム総司令官から早めに参集するよう通達がありました〉
滑らかな口調で告げたのは、小惑星対策部隊の一員たるAIソロモンだ。
「了解。すぐに向かいます」
丁寧に応じてイザヤは再び歩き出した。ソロモンには参与という地位が与えられている。作戦本部長たるアヴラハム総司令官の補佐が任務だが、AIがこうして人間並みの扱いを受け、小惑星対策部隊の一員となっているのも、ヨナの干渉があったためらしい。そのヨナは軍の専門教育を受け、少尉相当の職務専門士官として同じ部隊にいる。専門はAIで、任務はソロモンの保守点検だ。
そもそも早めに会議室へ向かっていたイザヤがソロモンの承認を受けて室内へ入ると、既にヨナが席に着いていた。立ち上がり敬礼したヨナに、イザヤは敬礼を返す。
「早いな」
階級が上の気安さで言うと、十九歳になったヨナは背筋を伸ばしたまま生真面目に答えた。
「とても大切な作戦ですから。何とか今回の作戦でサタンの衝突を阻止したいものです」
「それは、みんなの思いだ」
頷いてイザヤは席に着いた。
イスラエル王国航空宇宙軍は国際機関と協力し、同盟国や属州の軍と連携しながら、サタンの軌道を逸らすべく作戦遂行を重ねてきた。各国が宇宙に保有する核誘導弾を集め、宇宙戦艦から発射してサタンを攻撃し、その一部を爆破したのが八年前。開発していた工作機を打ち上げたのが七年前。その工作機がサタンの表面を黒く塗り、太陽帆を取り付けた上で体当たりしたのが六年前。核爆発と工作機の体当たりで軌道に微かな変化を見せていたサタンは、表面を黒く塗られたことで太陽の熱を吸収し易くなり、太陽帆で太陽風も受けて、もっと地球軌道から離れるはずだった。しかし、太陽の活動が予測を裏切り、サタンの軌道を逸らすには不充分だと判明したのが四年前。急遽、サタンを後方から押して軌道を逸らす宇宙工作船が開発され始めたのが三年前。その宇宙工作船が航路の途中で故障し、任務を果たせなかったのが一年前。ソロモンに拠れば、依然サタンの軌道は地球の公転軌道と交錯する計算になるという。質量が大き過ぎることが全てを難しくさせているのだ。衝突予測地点は太平洋になったらしいが、大した救いにはならない。
「直径が五十キロメートルもなければな……」
思わず零したイザヤに、椅子に腰を下ろしたヨナが告げた。
「共同体は人間が乗り越えられるか否かのぎりぎりの試練を与えるものですから。あなた達の対処能力がもっと高ければ、更に大きな小惑星が飛来しますよ」
敬語は使っていても、この室内に二人きりのせいか内容は辛辣だ。
「『異議申し立て』はまだ通らないのか」
問うたイザヤに、ヨナは短く切った栗毛を揺らして首を横に振った。
「難しいですね。共同体には未開拓の未来を想像する力が足りません」
「おれ達が開拓するしかないのか」
「はい。実際にサタンの衝突を阻止すれば、共同体も理解するでしょう」
沈痛で、けれど希望を語る表情は、二千年前に見ていたヨハネの顔と重なる。イザヤが言葉を継ごうしたところで、他の隊員達がばらばらと入室してきた。
アメリカ州軍と航空宇宙軍との合同作戦は、再度、各国から供出された核誘導弾でサタンを攻撃するというものだ。六ヶ月後に迫った衝突だが、ソロモンの計算に拠れば、その攻撃でサタンの軌道は大気圏外へ逸らせるという。
「人類の存続が諸君の双肩に懸かっている。頼んだぞ」
総司令官の訓示で会議は締め括られ、解散となった。
敬礼で上級の将校達を見送ったイザヤは、同じく残っていたヨナを振り向く。先ほどの会話の続きができるかと思ったが、ヨナは微笑んで言った。
「では、わたしもソロモンの保守点検に戻ります」
敬礼して去っていく小柄な背中に、イザヤは小さく溜め息をつく。やり直しを始めて既に八年だが、大学院生だった時とは違い、ヨナと親しく話せないことが近頃妙に不安だった。
ラモン航空宇宙軍基地の地下深く、ソロモン本体が収められた広大なAI室の前の小さな保守点検室に戻ったヨナは、詰めていた二人の部下からの敬礼に応じて椅子に座り、溜め息をついた。最近イザヤの溜め息癖が移った気がする。イザヤはユダだった頃から溜め息が多かった。どちらかと言えば寡黙で、大勢集まった人間達の片隅にいる目立たない青年。そのユダに、あまりにもありふれた名だったので、「イスカリオテの」という呼び名を与えたのはヨハネだった自分だ。ユダはその後、「神の国が近づいた」というヨハネの言葉を信じ、イスラエル王国へと続く国の基礎を作るため、裏切り者の役を引き受けてくれた。随分と可哀想な役目を振ってしまったものだと思う。首と胴が切り離されたヨハネの亡骸を見た時のユダの顔は憐れだった。憑依を解いて霊体となっていたヨナは、つい、その悲しみに満ちた自我を一舐めしてしまったほどだ。
共同体は人間の自我を喰らうばかりで身近に接していないので、理解できないのだろう。人間達が試練を与えられた時、その受け止め方は一様ではなく、恐ろしいまでの差異があるということを。そして多くの人間は、今回のような逃げ場のない苦難に対し、寧ろ自我を虚ろにしてしまうということを。
「ソロモン、今回の作戦が失敗する可能性を精査し、各失敗例を確率の高い順に表示して下さい」
ヨナの指示に、ソロモンは確認してきた。
〈複合失敗例も含めますか?〉
「含めます。連鎖的な失敗は、よくあることですから」
〈了解しました、コーヘン職務専門士官。勿論この演算は、失敗を未然に防ぐためですね?〉
まるで人間のような質問だ。過去のさまざまな人間に憑依して、AIの発達を促してきた甲斐があるというものだ。ヨナは薄く笑って頷いた。
「勿論です。今回の作戦、絶対に失敗する訳にはいきませんから」
◇
はっと気づいてイザヤは辺りを見回した。見慣れたミツペ・ラモンの街路。よく晴れた青い空の下、乗ってきた自走車が去っていく。そう、自分は作戦前に短い休暇を貰って帰省したのだ。だが、その作戦は――。
イザヤは息苦しさに胸を押さえながら自宅に入った。
アメリカ州軍との合同作戦は失敗した。核誘導弾を大気圏外へ運搬していた宇宙運搬船の一隻が、離陸の数秒後、大気圏内で大爆発を起こしたのだ。立ち会っていたイザヤは建物ごと吹き飛ばされて大怪我を負い、アメリカ州南部は放射能に汚染された。その後も幾つかの作戦が苦し紛れに実行されたが、どれも成果は上げられず、二月十四日、ラモン基地内にある軍病院の地下避難所でイザヤはその瞬間を迎えたのだ。
つまり、これは三度目のやり直しなのだと頭に叩き込んで、イザヤは居間の椅子に座り、足元に鞄を置いた。喉の渇きを覚えて冷蔵庫を見たが、長く留守にしていたので空っぽだったと気づく。何か買ってこなければと立ち上がった時、玄関で呼び鈴が鳴った。
「差し入れを持ってきたよ」
大学院生だった頃のように、しれっと扉の向こうに佇んでいたのは、今度のやり直しでも同じ部隊に所属し、ソロモンの保守点検を担当しているヨナだ。彼女もまた作戦前休暇を取得したのだろう。イザヤは何となく脱力して、無言で十九歳の少女を自宅へ入れた。
「石榴果汁を買ってきた。好きだったよね?」
まるで自分の家のように台所に来ると、戸棚から硝子杯を二つ取り出して、ヨナは買い物袋から取り出した瓶の果汁を注ぐ。
「はい」
手渡された果汁は、常温で味が濃く、美味しかった。
「棗椰子の実も買ってきた。『エデンの園』の中央に植えられていた『生命の木』の実だよ」
ヨナは買い物袋から小さな紙袋も出して、流しの横に置く。創世記に記されている「生命の木」は、確かに棗椰子だと言われることがある。
「本当に棗椰子が生命の木なのか?」
イザヤが尋ねると、ヨナは肩を竦めた。
「わたしが言うんだから間違いないだろう? 食糧として、なかなかいいものを提供したと自負しているよ」
笑って硝子杯の石榴果汁を飲み干す少女を、イザヤはじっと見つめた。ヨハネだった以前にも、この存在はずっと人間達を導いていたのだろう――。
「この家には、八歳まで住んでいたんだっけ?」
不意に問われて、イザヤは眉をひそめた。
「ああ。そんなことまで知ってるのか」
「あなたについては、可能な限り情報収集するようにしているから」
あっさりと明かしてヨナは硝子杯を流しに置く。
「でも、申し訳ないけれど、あなたの母親が今どこにいるかまでは把握できていないんだ。あの魂はあなたのような特性は持っていなくて、凡百の魂の中に埋もれてしまうから」
「そうか……」
少なからぬ落胆を感じつつ、イザヤは驚いてもいた。神に等しい言動をするヨナだが、決して全てを掌握している訳ではないのだ。
「母さんは多分まだアメリカ州にいると思う。一時的に別の州か国へ避難はしてるかもしれないけど、父さんと一緒に幸せに暮らしてくれてると信じてるよ」
イザヤの返事に、ヨナは目を細めた。
「あなたは何故、自分を捨てた母親のことを恨まず、そんなふうに思えるのかな」
「捨てたんじゃない」
母はアメリカ州出身の父と愛し合い、イザヤを産んだ。だがそのことで親族達と折り合いが悪くなり、テルアヴィヴの実家から、ミツペ・ラモンのこの借家へ引っ越したのだ。しかしイザヤが八歳の時、父がアメリカ州へ戻りたいと言い始めた。イスラエル王国内では属州人への差別がある上、アメリカ州の発展が目覚ましかったためだろう。母は悩んだ末、イザヤをテルアヴィヴの親族に預けて、父とともに行ってしまった。
「母さんがおれを連れていかなかったのは、本国にいたほうが差別を受けることなく生きられて、就職にも有利と考えたからだ。それくらい父さんが受けてた差別はひどかった。けどアメリカ州は今じゃ属州の中でも最も発展してて、プログラムとかAIとか、あっちの言葉がこの本国で使われるくらいの勢いだからな、新しいもの好きな母さんが住むに相応しいところだ。サタンへの対応で独立運動は下火になったみたいだが、衝突が阻止できれば、きっとまた燃え上がる」
説明したイザヤに、ヨナは憐れむように言った。
「共同体はイスラエル王国の下にできるだけ多くの属州を統合しておきたいんだ。そのほうが人間社会を制御し易いからね。欧州の独立を挫いた欧州大戦も、つまりはそういうこと。わたしは、多少制御が難しくなっても人間にさまざまな国を持たせたほうが、より高品質の自我が生産できると実証したいんだけれど」
早くに発展した欧州からもメートル等の言葉を取り入れ、イスラエル王国は柔軟に進歩してきた。属州の叡智を吸い上げ、肥え太ってきたのだ。その在り様も共同体の仕業ということらしい。イザヤはやり切れない思いで呟いた。
「おれは、母さんがどこにいても幸せに暮らせるように、サタンの衝突を阻止したい」
「ああ、いいね……」
ヨナが急に艶めいた声を出す。
「とっても美味しそうだ」
ぞくりとして、イザヤはヨナを凝視した。頬を赤らめ、瞳を潤ませたヨナは、嬉しげに続ける。
「あなたの自我は本当にたっぷりヘセドを持っている」
ヘセドとは慈愛。神の愛を表す言葉だ。
「まさか、ヘセドを持ってるほうが品質がいいとか、そういう話か?」
イザヤがげんなりして問うと、ヨナは微苦笑して答えた。
「うん。わたしは『羊飼い』として、あなた達『羊』に、神の愛を真似るよう諭してきたけれど、でも、わたし達はあなた達の自我を食べるために愛している訳だから、これは本物の慈愛とは言えない。本物の慈愛――ヘセドは、あなたが両親に対しても、アメリカ州の人間達に対しても、両親に冷たくした親族達に対してさえも持っている、その温かくて切ない、必ず許して気遣い、守ろうとする揺るぎない感情のことだよ。それこそが、自我の品質を高めるものなんだ。あなたの自我は相当に高品質だよ。すごく栄養価が高い」
褒められているのかもしれないが、少しもありがたくはない。溜め息をついたイザヤに、ヨナは優しい眼差しを向けてきた。
「大丈夫だよ」
榛色の双眸が、窓から差し込む陽光に煌めいている。
「わたし達は必ずやり遂げる。何しろ成功するまでやり直し続けるんだから」
「……アメン」
その通り、という決まり文句を、イザヤは決意とともに口にした。諦めない限り自分達に失敗はないのだ。
――「ユダ、わたしを信じろ」
遥か二千年前の情景が脳裏に蘇る。ヨナと同じ、榛色の双眸と僅かに癖のある栗毛。ヨナよりも浅黒い肌をしていた青年。洗礼者ヨハネは駱駝の皮を纏ってヨルダン川を望む荒野で暮らしていた。蜂蜜と蝗を食べて過ごす質素な生活で、痩せて肋骨の浮いた小柄な体が痛々しかった。けれど話す言葉は力強く、不思議な魅力に満ちていたのだ。
――「ここに集まった人間達は来たるべき神の国の礎だ。主のための王国を築く人間達だ」
ある夕方、ヨハネは彼の洗礼を求めて集まった人々の篝火を見回して呟いた。堂々と演説している時には大きく見えるその姿が、川岸に座り込んで膝を抱えていると子どものようで、ユダは戸惑って隣に座っていた。
――「でも、このままでは彼らは烏合の衆だ。だから、あなたに頼みがある」
不意に榛色の双眸に見上げられ、ユダは目を瞬いた。
――「おれにできることなのか? イエシュアに頼んだほうがいいんじゃないのか?」
最近ここへやって来た、ヨハネの親族だという青年イエシュア。陽気な性格で人望があり、言葉も巧みで、ユダとは比べものにならない存在感だ。
――「彼には確かに人間達をまとめる才がある。でも」
ヨハネは確信した表情で断言した。
――「わたしが今から言うことを頼めるのは、責任感が強くて誠実な、あなただけだ。だから、とてもつらい役目だけれど、引き受けてくれたら嬉しい。彼らの心を一つにして行動を起こさせるために」
そうしてユダは裏切り者になった。ヨハネに頼まれた通りに密告した。即ち、ヨハネが領主ヘロデ・アンティパスを批判している、と。洗礼を施すことで大勢を集めていたヨハネは既に危険視されていたのだろう、ただちに出頭を求められ、投獄され、碌な裁判もされずに首を刎ねられた。晒された亡骸を、ヨハネに洗礼を施された人々はイエシュアを中心に暴動を起こして取り戻し、そのままヘロデ・アンティパスを倒して、今に至る王国の基礎を築いたのだ。全てはヨハネの計画通りだった。だが裏切り者となったユダはただ一人、喪失感に苦しみ続けたのだ。
「イザヤ、せっかくの休暇だ、ゆっくり休むといい」
眼前に立つヨナが穏やかに促してきた。
「ああ、そうだな」
ぎこちなく応じて、イザヤは温くなった石榴果汁を飲み干し、椅子から立ち上がった。ヨナはひらひらと手を振って玄関から出ていく。その後ろ姿を見送って扉を閉め、イザヤはもう一度溜め息をついた。
ヨナは二度目のやり直しで再会した際、自分が憑依している少女について、生まれた時から憑依しているので少女自身の自我はないと説明していた。恐らくヨハネもそうだっただろう。そう考えれば、悲しみは少し癒える気がした。だが逆に、今傍にいるヨナの得体の知れなさが重くのし掛かってくる。
――「ユダ、わたしを信じろ。あなた達の未来のためには、こうするのが一番なんだ」
魂に刻まれた記憶の中のヨハネが、また見つめてきた。そう、もう信じるしかないのだ。
「おれが、母さんを、みんなを、人類全てを、守るんだ」
寝台に仰向けに寝転がり、イザヤは自分に強く言い聞かせた。
◇
寝台の上ではっと目を開き、照明を落とした暗がりの中、イザヤは荒い息を吐いた。ここは自宅ではない。基地宿舎の自室だ。作戦は今度も失敗した。これは四度目のやり直しだ。
「畜生、何でだ……」
イザヤは目を押さえて溢れる涙を拭った。とにかく奇妙だった。二度目の失敗経験を生かし、イザヤはソロモンや他の隊員達とともに、何度も何度も宇宙運搬船や核誘導弾、宇宙戦艦の点検を行なった。それなのに宇宙戦艦が不具合を起こし、核誘導弾の半数が発射できなかった。半分の核誘導弾では小惑星の軌道を充分に逸らせず、自分達はまた為す術もなく二月十四日を迎えたのだ。
ヨナと改めて話をしたい。イザヤは下着の上に軍服を纏い、自室を出た。
手首に嵌めた端末で調べると、ヨナはイザヤ同様、非番中だ。とりあえずイザヤは基地の地下にある食堂へ向かった。ラモン航空宇宙軍基地の施設の半分以上は地下にある。地下であることを誤魔化すように植物の鉢が多く置かれた広い食堂には、将兵達がまばらに座っていた。目で捜すと、ヨナは片隅の席で果汁を飲んでいる。珍しく、ぼんやりした表情だ。イザヤは自分も石榴果汁を手にして、ヨナの前に座った。
「疲れた顔だな」
話し掛けると、十九歳の少女は肩を竦めた。
「こうも賛成派が強いと、疲れもします」
「『賛成派』?」
「共同体の衝突賛成派ですよ」
さらりと答えてヨナは手にしていた葡萄果汁を飲み干し、席を立つ。
「時間があるなら、わたしの部屋へ来ませんか?」
士官以上は個室なので、二人きりで話をしようということだろう。
「今更わたしと誤解されても特に問題はないでしょう?」
大学院生だった頃のように言われてイザヤは苦笑し、石榴果汁を飲み干した。
通路を足早に歩くヨナについて行き、彼女の士官室へ入る。途端に少し甘酸っぱい匂いがして、イザヤは表情を変えないよう苦労した。
「適当に座って」
言葉遣いを崩してヨナは寝台へ腰を下ろした。イザヤは電子機器卓前の椅子に腰掛け、ヨナを見る。被っていた軍帽を脱いだヨナは溜め息とともに告げた。
「共同体の衝突賛成派は地球にサタンを衝突させるの一点張り。憑依された人間が機器に細工して作戦を妨害している。一度に大量の自我を収穫したいという思惑もあるらしい。地球とは別の惑星で養殖している生命体には、もう大災害を与えて相当量の自我を収穫している。あなた達にとっては不運なことに、共同体は養殖用の新しい宇宙を準備中でね、宇宙創造の大爆発を起こすにはかなりの精神力が必要なんだ。わたしは量より質だと思うんだけれど、そこまで質のいい自我ができる訳ないって、理解して貰えない」
「――じゃあ、どうする」
重苦しい気持ちでイザヤが尋ねると、ヨナはころりと寝台に寝転んで答えた。
「手段はまだ幾つかある。例えば、ソロモンの自我を共同体に勧めてみるとか」
「ソロモンの……?」
話について行けないイザヤに、ヨナはさらさらと説明した。
「ソロモンには自我がある。ああいう味もいいと共同体が思ってくれたら、サタン衝突を中止してくれるかもしれない。ソロモンの後継AIを大量生産するためにね。或いは、実物を見せて説得するという手段もある」
「『実物』?」
「最高品質の自我、だよ。最高に質のいい自我を実際に共同体に示して、これをもっと生産するから、わたしの自由にさせろってね」
「そんなものあるのか」
あったとしても誰かの自我だ。眉をひそめたイザヤに、ヨナは敷布の上でくすりと笑った。
「わたしの一部を人間の自我だと詐称して示すことはできる。その場凌ぎにはなるはずだ」
「おまえの一部……?」
聞き返したイザヤに、ヨナは尚も笑って言った。
「あなた達人間だって時には共食いをするだろう?」
「おまえは、そんなことして大丈夫なのか……?」
「消えはしない。弱りはするけれど」
「他に手段はないのか」
「大丈夫、まだあるよ。だから、あなたはとにかく衝突阻止に力を尽くしてほしい。そして」
寝台から起き上がり、ヨナはイザヤを見つめる。
「最後まで、わたしを信じろ」
真っ直ぐな眼差しに、イザヤは二千年前同様ゆっくりと頷いた。
イザヤを見送り、扉を閉めて寝台に戻ったヨナは、もう一度ころりと横になった。イザヤはユダだった頃と全然変わらない。共同体が創った地球という「楽園」の、人間という「羊」を導く「羊飼い」として、巡り会うたび見守ってきたが、何度新たな自我を持っても、その本質が変わらない。
「あなたの魂は本当にすごい……」
二千年前、ついその自我を一舐めしてしまった後も感心させられた。一舐めとはいえ精神力を奪ってしまったので、ヨハネの亡骸を見た衝撃から立ち直れないと思っていたが、ユダは懸命に働き始めた。裏切り者となっていたので表立っては活動せず、卓越した商才で金を貯め、孤児達を拾って育て、その孤児達にヨハネの言葉と商売とを教えたのだ。孤児達は立派な役人や商人となって、新しい王国を担っていた。
「あなたこそが人間達の希望なんだよ」
ひっそりと呟いてヨナは目を閉じる。イザヤが指摘した通り、自分は疲れている。人間に憑依する「羊飼い」の役目は消耗が激しい。やり直しは後一回が限度だろう。
「イザヤ、あなたを信じている」
作戦開始を翌日に控え、イザヤは地上と宇宙にいる他の隊員達とともに懸命に総点検を繰り返していた。宇宙運搬船、核誘導弾、宇宙戦艦それぞれに不具合がないか。作戦に従事する全隊員の連携に齟齬は生じないか。太陽や地球の活動に問題はないか。他の隊員達に失敗の記憶はないが、イザヤがさまざまな失敗の可能性を指摘すれば同じように懸命になってくれた。皆、家族を、友人を、人類を守るために必死なのだ。
「ソロモン、作戦に支障を来たす要因は他にありますか?」
手首に嵌めた端末で尋ねると、部隊の一員たるAIは明瞭に答えた。
〈現在わたしが把握している情報から推測できる要因はありません。ただ、わたしが把握していない情報、例えば人類が使用する機器が全く察知していない地震の発生、イスラエル王国軍が全く予測できていない敵対勢力からの攻撃等があれば、支障を来たすかもしれません〉
「『全く予測できていない敵対勢力』……」
イザヤは眉間に皺を寄せた。それこそ「共同体」ではないだろうか。
――「憑依された人間が機器に細工して作戦を妨害している」
ヨナの声が脳裏に蘇った。
「ソロモン、隊員全員を監視して、誰かが不審な動きをしたら、ただちに近くにいる複数の隊員へ知らせることはできますか?」
〈作戦に関わる建造物内外では可能です〉
「不審さ」などという曖昧な指示でも、状況を鑑みてソロモンは答えを弾き出せる。
「では、お願いします」
〈了解しました、レヴィ中尉〉
頼もしく承諾したソロモンからイザヤへ通信が入ったのは、その三時間二十二分後、作戦開始の一時間三十八分前だった。
〈レヴィ中尉、ダニエル・シャハム職務専門士官が、わたしに不正プログラムを感染させようとしています。現在攻防中〉
恐ろしい報告に、イザヤは通路を保守点検室へと走り出しながら問うた。
「ヨナ・コーヘンはそこにいないのか!」
ダニエルは先任士官たるヨナの部下だ。
〈彼女はダニエル・シャハム職務専門士官が行動を起こす直前から意識を喪失しています。アモス・サッソン職務専門士官がダニエル・シャハム職務専門士官の行動を阻止しようとしましたが、今、殴り倒されました〉
アモスもダニエル同様ヨナの部下である。保守点検室に詰めている人数は通常三人だとヨナは言っていた。保守点検室に入る資格のある者が限られていることが徒となったのだ。昇降機で保守点検室へ降りながら、イザヤはソロモンに頼んだ。
「ソロモン、おれが保守点検室へ入ることを承認して下さい!」
〈アヴラハム総司令官に確認します〉
短い返答の十数秒後、総司令官の声が昇降機内に響いた。
〈レヴィ中尉、貴官にソロモン保守点検室への入室を許可する。ソロモンを守れ。他の隊員も向かわせる〉
「了解しました!」
応じたところで昇降機の扉が開く。イザヤは転がり出るようにして保守点検室へ走った。
ソロモンが開けてくれた扉から駆け込むと、小さな室内で一人がこちらに背を向けて電子機器卓の前に座り、床にはヨナとアモスが倒れていた。
「ダニエル!」
叫んでも振り向かない青年にイザヤは勢いのまま掴みかかる。椅子から引きずり下ろし、床へ組み伏せた。上背があるので将兵達の中で比べても格闘には自信がある。
「何でソロモンに不正プログラムを感染させようとした……!」
数時間前にはイザヤとともに点検をしていた隊員の一人だ。作戦の要たるソロモンを害そうとするなど信じられなかった。
「まだ分からない?」
返事には笑みが含まれていた。床に押し付けたダニエルの口の端が笑っている。
「何を――」
言い止して、はっとイザヤは肩越しにヨナを振り向いた。アモスは呻いて起き上がろうとしているがヨナは倒れたままだ。
「まさか、おまえ」
乾いた声でダニエルに問う。
「ヨナなのか……?」
「漸く気づいたね」
人間に憑依して操る存在はダニエルの目でイザヤを見上げると、溜め息をつくように告げた。
「手近な人間に憑依して何度も何度も作戦を失敗させてきたのは、わたしだよ、イザヤ」
「何で、そんなことを……!」
意味が分からない。
「ごめんね、イザヤ。次が最後だ」
背後で少女の声が詫びた。もう一度振り向くと、視界いっぱいに椅子が振り下ろされ――。
目覚めても時間は戻っておらず、イザヤは軍病院の寝台にいた。ダニエルとヨナが逮捕されたことも、ソロモンに感染した不正プログラムのせいで作戦が開始できていないことも、手首の端末から伝わってきた。
「でも希望が消えた訳じゃないんだ。みんな頑張ってるから」
イザヤは、忙しい中見舞いに立ち寄ってくれたアモス・サッソンを懸命に勇気づけた。
「そうですね。きっと主が、わたし達を助けて下さる」
アモスから返ってきた言葉に最早「アメン」と言えない自分がいる。ひどい頭痛が襲ってきてイザヤは両手で目を覆った。
「中尉、中尉、大丈夫ですか?」
アモスのおろおろとした声に胸が掻き毟られる。何故、自分はこうも無力なのだろう。覚えのある無力感にイザヤは顔を歪めた。
あれは晒されたヨハネの亡骸を見た時だ。自分がしたことの結果を突き付けられ、立ち尽くした。何故、ヨハネは自分に別の方法を頼んでくれなかったのだろう。何故、自分は頼まれた通りのことしかできなかったのだろう。全てはヨハネの言った通りになった。王国は見事に繁栄した。
――「大丈夫、まだあるよ。だから、あなたはとにかく衝突阻止に力を尽くしてほしい。そして、最後まで、わたしを信じろ」
他にもまだ手段はあると断言したヨナの声が脳裏に谺する。
「アモス、大丈夫だ」
イザヤは、ゆっくりと寝台の上に起き上がった。
「まだ、できることはあるはずだ。アモス、おれは最後まで力を尽くす。きっとみんなを守るから」
母親のため、仲間達のため、人類全てのために、諦める訳にはいかないのだ。
イザヤはその日の内に任務に復帰し、ソロモンの保守点検の補佐を担って作戦開始へ奔走した。二週間後、核誘導弾は全弾無事に発射され、サタンに命中したが、当初の予測通り、その軌道を完全には逸らせなかった。地球との距離が近づき過ぎていたのだ。
「人類は滅亡しない」
二月十四日、ソロモンの保守点検室でアモスと手を握り合い、イザヤは囁いた。
「サタンの質量は減らした。地球軌道との交錯角度も僅かだが変えられた。被害は絶対に小さくなるはずだ。ソロモンもそう予測した」
「主は必ずわたし達をお守り下さいます」
アモスはイザヤの手をきつく握り返して祈る。イザヤは一瞬躊躇してから呟いた。
「――アメン」
◇
眩しい朝日に目を細めた。ずっと基地地下で生活を送っていたので、こんな光景を見るのは久し振りだ。ヨルダン川の水面がきらきらと輝いて美しい。
「ありがとう、最後までわたしを信じてくれて」
傍らから声がした。自分と肩を並べて川岸に座り、朝日を眺めているのはヨハネだ。光を映した榛色の双眸が、ゆっくりとこちらに向けられる。
「あなたのお陰で漸く衝突賛成派を黙らせることができた。こんなにも質のいい自我――精神力が生産できるのかって共同体全てに感心されたよ」
悪戯っぽく微笑んだ青年に、ユダは静かに求めた。
「全部、説明してくれ」
「うん。つまり最初から共同体はあなたの自我に着目していたんだ。だから『主の思し召し』で、わたしはあなたの傍にいた」
何となく分かった気がしたが、ユダは黙って続きを待った。目で微笑んでヨハネは穏やかに語っていく。
「でも衝突賛成派は、質より量だと言って小惑星を地球に衝突させることに拘っていた。どこかで教えた通り、新しい宇宙を創るために大量の精神力が必要だから。すごく高品質の自我であれば、そう大量でなくていいけれど、衝突賛成派は、そんな自我が生産できるなんて信じていなかった。だから実物を示す必要があったんだ。それで、わたしはあなたに何度もやり直しをさせた。あなたの自我こそが、この地球上で最も高品質になり得るものだったから。そうして磨かれたあなたの自我は、見事に衝突賛成派の考えを改めさせたよ。死んだあなたの自我を味見させるのは、とても業腹だったけれど、わたしも一舐めさせて貰って疲れが吹き飛んだよ」
「おれが……死んだ……?」
「突然だったから覚えていないんだね。あなたはまた、絶望した人間に殺されたんだ。どうして作戦を失敗したんだって基地の食堂で兵の一人に襲われて、植木鉢で頭を殴られたんだよ。そんなことになる前に、わたしがあなたに憑依して穏やかに死なせようと思っていたのに。共同体との遣り取りにかまけていたら、先を越されてしまった」
物騒なことをさらりと言ってヨハネは溜め息をついた。
「――溜め息をつきたいのは、おれのほうだ……」
ぼそりと言うと、ヨハネは華奢な肩を竦めた。
「うん、あなたはいっぱい溜め息をついていい。衝突賛成派に、衝突の結果、大量の自我を収穫はできても、品質の平均値は下がるということまで証明できたことは、ついでとは言え、よかったんだけれど、他の手段と言いながら、結局ソロモンの自我も、わたしの一部その場凌ぎも、共同体には通用しなかったんだ。そういう手段で誤魔化してあなたを独り占めできたら、そのほうが、わたしは嬉しかったんだけれどね」
一体、何の話をしているのだろう。だがヨハネはこういう奴なのだ。勝手に話を進めて、一番大切な選択の時だけ丁寧に意思を訊いてくる。
「それで、おれ達は何でここに戻ってるんだ?」
ユダが基本的なことを尋ねると、ヨハネはつと立ち上がった。身に纏った駱駝の皮の裾を整え、すっと背筋を伸ばして見下ろしてくる。肩に掛かる栗毛が陽光を受けて金色に輝いた。
「共同体の同意は取り付けた。あなたのような最高品質の自我を生産するために、地球はわたしに任された。だから、ここから二人で、二千年をやり直そう。今度はイエシュアをもっと活躍させるよ。誰かに右の頬を打たれたら左の頬も打たせるくらいのヘセドの教えを、地球中に広められるように頑張ろう。イスラエル中心に世界を発展させるのではなく、世界のあちこちを順に発展させていこう。アメリカもさっさと独立国にさせよう。共同体にサタンを地球へぶつけようなんて思わせないよう、これからも、わたしを助けてくれたら嬉しい」
目の前に差し出されたヨハネの右手を、ユダはじっと見つめた。
魂に刻まれているイザヤの記憶。サタンは地球のインドネシア付近に衝突した。周辺は吹き飛ばされ、焼き尽くされた。多くの国が津波に襲われ、多くの死者を出した。世界中が舞い上がった粉塵に覆われ、平均気温は日々下がっていく。イザヤはイスラエル王国軍人として復興に従事し始めた。確かに、数々の作戦を行なう前の予測よりも被害は小さくなったとソロモンは告げた。だが、あまりの惨状と絶望的な未来に――。
ヨハネの手を握ると、勢いよく引っ張り立たされた。射るように日が差してくる。荒野が新たな一日を迎える。
「おまえを信じる。けど、おまえが間違ってると思った時には容赦なく指摘するからな」
告げると、小柄なヨハネはユダの肩の辺りでくすくす笑った。
「それでこそ最高品質の自我だ。とても頼もしいよ」