バラに話しかけている
星の王子様ではないのですが、バラと話します。
庭にバラの花が咲くと、僕はバラに話しかける。
バラは小さな庭にいつもたくさんの花を咲かせる。
けれどバラは、僕の話を聞いているかいなのか、ときどき風に吹かれて頭を少しゆらすだけで、何も応えてはくれない。
バラに話しかけるようになってからもう5年になる。初めてバラに話しかけたのは、この部屋に越してきて間もない頃だった。その頃の僕は貧しく、友達もいなかった。毎日部屋に閉じこもって一日中机に向かって物語を書いていた。その年の春、部屋の前の小さな庭に一輪のバラの花が咲いた。毎日、ほとんど誰とも話すことなく過ごしていた僕は、無意識にバラに向かって話しかけた。
一度話しかけてしまうと、今まで自分の中に知らず知らずにたまっていたものが吐き出されるように、次から次へと言葉があふれてきた。自分の中にこんなに話すことがあったなんて、驚くくらいに、いろいろなことをバラに話した。今書いているお話のこと、会社をやめたときのこと、昨日食べた晩ごはんのこと、朝目が覚めて最初に
目に入ったクモの巣のこと、大家さんのところの猫のこと…。日が暮れるまで僕は、僕の中にあらゆることをバラに向かって話した。
日が暮れて、部屋の中が暗くなってきた頃、話は終わった。話し終わったとき、僕は抜け殻のようになっていた。ボーッとした頭に春の風が心地よく通りぬけていった。かすかにバラの香がただよい、暗くなった部屋の中は、すべての輪郭が失われ、ぼんやりとしていた。
そのとき、何かがささやく声が聞こえた。それは、あまりにも小さな声で、どこから聞こえてきたのかも分からなかった。ぼくはそのままじっと耳をすました。だけど、そうして耳をすましていると、だんだん声がしたことが気のせいのように思えてきた。そんなふうに神経を集中させているうちに、自分がすごくお腹がすいていることに気づいた。僕は朝から何も食べずにずっとバラに向かって話し続けていたのだ。立ち上がろうとしたとき、今度はハッキリと声がした。
「あなた、花に水をやるってことを知らないの?」
今度は気のせいなんかじゃなかった。声はバラの花の方からと聞こえた。
僕は、バラを見つめて、動けなくなってしまった。
「あなたの話はもう十分、わたしは水がほしいの。」バラは続けた。
「君が話しているの?」
バラは、じれったくてしょうがないという感じで、もう一度言った。「あなたは、自分の耳で聞いていることが分からないの?何度も言わせないでちょうだい。私は死にそうに喉がかわいているの。」
僕は台所にすっ飛んでいき、フライパンに水を入れて戻ってきた。暗い部屋の中を大慌てで走ったので、フライパンの水は半分ぐらいにこぼれてしまった。それでもどうにかバラの木に水をやることができた。
その日、今度はバラが僕に色々な話をした。この庭にバラがやってきたときのこと。この部屋の前の住人がいかに大切にバラを扱ったかということ。この前の前の住人がいかにぞんざいにバラを扱ったかということ。大家さんの家の猫が、バラの木に登ろうとしてたくさんの花を散らせてしまったこと…。バラの話は気まぐれで、この場所でバラが見てきたことをあっちに飛び、こっちに飛び、同じことを何度も繰り返したりしながら遅くまでつづいた。11時を過ぎた頃、バラは突然、「私今日はもう寝るわ」と言って話すのをやめた。
僕はしばらくそのままバラを眺めていたが、バラが眠っているのかどうかよくわからなかった。でもバラはそれ以上何も話しかけてこなかったので、シャワーを浴びて眠った。
次の朝、僕はバラに起こされた。バラに水をやり、自分も朝食を食べ午前中はバラの話を聞きながら、仕事をした。昼食を食べた後、一度出かけて、赤いジョウロを買ってきた。そして、またバラの話を聞きながら仕事をした。バラの話は昨日とほとんど変わらなかった。同じような話を同じようにあっちに飛んだり、こっちに飛んだり、繰り返したりしながら話した。僕はバラの話にときどき合いづちを打ちながら仕事を続けた。
途中で晩ごはんを食べ、風呂に入った。風呂に入っているとき以外、食事をしているときも、バラの話は続いた。そして、11時を過ぎると、昨日と同じように、「それじゃ、おやすみなさい。」と言って静かになった。そして、僕も眠った。
次の日の朝、前の日と同じように、バラに起こされた。前の日と違ったのは、バラが二輪に増えていたことだ。新しく咲いたバラは、すぐに話し始めた。そして、新しく咲いたバラの話も、初めに咲いたバラの話とほとんど変わらなかった。僕はひっきりなしに話す二輪のバラたちの話を聞きながら、午前中いっぱい仕事をした。
昼食を食べた後、仕事のことで出かけた。外は春の暖かい日差しにあふれていた。道すがら、道路わきの家々の塀の上からいくつかのバラの花が顔をのぞかせていた。僕は道行く人に気づかれないように、こっそりその花たちに話しかけた。バラの花たちは、もちろん何も応えてはくれなかったけれど、僕にはバラの花たちが心持恥ずかしそうに横を向いたり、うつむいたりしたように見えた。
夕方、部屋に帰ると、バラたちの機嫌はとても悪かった。しかも、バラは三輪になっていた。そして、彼女たちは、待ちかねたように話し始めた。僕は少しも仕事に集中することができなかった。話を聞いていないと彼女たちの機嫌はますます悪くなって、大声を上げるので、適当にうなずきながらパソコンのキーをたたいた。
11時を回るといつものように、静かになった。僕は、そのまま明け方まで仕事を続けた。
次の日、ガヤガヤと騒々しい声で、目を覚ました。もう少し眠っていたかったが、とにかく水をやらないことにはおさまりそうになかった。重い頭を引きずりながらジョウロで水をやろうとすると、バラは五輪に増えていた。五輪のバラたちは昼に出かけるまでひっきりなしに話しつづけた。バラの話はどれも同じようなものだった。
それから5日の間にバラは、満開になった。数えてみると36輪の花があった。
5日間、朝の7時から夜の11時まで、昼ごはんを食べに出かける2時間以外、僕はガヤガヤとしたバラの中で過ごした。仕事はほとんど進まなかった。長く部屋を空けると、帰ってきてからの大騒ぎするため部屋を空けることもできなかった。バラたちが眠った後、毎日明け方まで仕事をした。
最初のバラが咲いてから十日目の朝、バラたちに水をやった後に出かけた。そして、そこで初めてまともな仕事をもらった。僕の頭はそのことでいっぱいになり、他のすべてのことはどこかに追いやられてしまった。その日は日が暮れてから部屋に帰った。
部屋ではバラたちが大騒ぎしていた。いくつかのバラはヒステリックに、同じ話をくり返し、いくつかのバラは、どこに行っていたかをしつこくたずねた。ただ、わけのわからない声をはり上げるバラもいた。いくらなだめても、騒ぎはおさまらなかった。それは3時間以上続いた。
「いい加減にしろ!もううんざりだ。頼むから静かにしてくれ!」
ついに大声をだしてしまった。一瞬にして、静寂が訪れた。
時計を見るとまだ11時前だった。僕はそれからシャワーも浴びずにベッドに入った。一週間分の疲れがドッと押し寄せ、深い眠りに落ちた。
次の日の朝、目覚めたのは11時を少し回ったところだった。目覚めて一番に、バラに水をやった。見たこところバラたちに少しも変わったところはなかった。だけど、バラたちは一言も口をきかなかった。僕は机に向かって仕事を始め、ときどきバラの方を眺めた。それから、2週間たって、最初に咲いたバラが散った。そして、6月の半ばには、全てバラが散った。バラたちは結局、あれから一言も口をきくことはなかった。
あれから5年が経った。 僕は今ではそれなりに食べていけるようになった。あれ以来、毎年バラの季節になると必ずバラに話しかけている。だけど、バラは、僕の話を聞いているのかいないのか、何も応えてはくれない。