鼓動
「うそ……」 ぽつりと漏らすスカーレット。
「…………」 言葉の出ないシアン。
その時、二人の魔法少女は、それを見上げていた。
うずくまった少年の背中から伸びていた二本の黒い角。でもそれは角ではなくて。羽化する昆虫が、蛹からその脚や羽をずるりと引き抜くように。少年の背中から黒い翼がずるりと引き抜かれてく。
その黒い翼はとても大きかった。広げられたその翼は、巨大な魔法少女が見上げるほどに大きかった。漆黒の羽を無数に湛えたその翼は、そこに居る全ての生き物を圧倒していた。
「ねえ、どうしたらいいの?」
焦りに上ずった声で、スカーレットが訊ねる。
「そんな言われたって、私だってわかんないよ」
いつも冷静なシアンの声が、少しばかり裏返っている。
そうやって見上げる黒い翼は、見る間に一回り、二回りと大きくなっていく。
ただ。
それも長くは続かなかった。
――みしり。
翼の付け根が軋みを上げる。
酷くアンバランスなほどに成長した黒い翼。その膨大な質量に、少年の身体が耐えられるはずもない。少年はその膝から分厚いアスファルトの路面へと崩れ落ちた。
両膝と、それから両手を地につけて翼を支える。だけど、それでも、やっぱり苦しそうな嗚咽が漏れる。
スカーレットの胸に、助けたいと思う感情と、本能的な恐れとが入り混じって、とっさに動くことができない。シアンも同じように、動くことができずにいた。
シュバルツローゼの面々もまた、動けずにいた。戦闘員たちは少年の発する威圧感に圧倒されていて。怪人からの指示なしには動くことなどできないであろう。二人の怪人、蛇目頭と六郎にあった感情は焦りだった。
……まずい。非常にまずい。
ついに少年に溜まったエネルギーが限界を超えたのではないか? そう考える蛇目頭。だが蛇目頭も、そして六郎も、その本質は研究者だ。怪人ではあるのだけれど。
だからこそ、この状況であっても冷静であろうとした。
だからこそ、状況を理解することに努めようとした。
そして、だからこそ、動けずにいた。
そうやって、周囲の誰もが動けずにいるうちに、事態は進展する。
巨大な黒い翼が、少年の身体を包み込んでいく。そっと抱くように包まれていく。
そして、漆黒の羽でできた繭が、そこに現れる。
差し渡し二メートルほどだろうか。漆黒に染まった繭は、静かにそこに在った。
「……もしもーし」
すべてが動かなくなったその空間で。まず静けさを破ったのはスカーレットだった。
……じり……じり……じり。と、少しずつ黒い繭へとにじり寄る。
悟だった黒い繭へ呼びかけながら、その間合いを詰めていく。
――あと三メートル。……じり……じり。
「あのぅ、響木くん?」
――あと二メートル。……じり。
「私の声、聞こえてるかな?」
――あと一・五メートル。……じり。
もう手を伸ばせば届きそう。後ほんの少し。もう少しだけ。……じr
――ドクン!
スカーレットの脳裏に強烈な衝撃が響いた。
それは音とも振動とも言えない力。
直接、頭の中に衝撃を叩きこまれたように感じるほどの力。
……やばい。
もうそれは、本能といってもいいだろう。遠のきそうになる意識を必死に繋ぎ止めて、スカーレットはその場から飛びすざった。
刹那。
漆黒の羽に覆われていた繭から、黒い靄がばっと広がる。飛び退いたその場所はもう黒い靄に覆われていて、さらにはスカーレットを追うかのように、その範囲を広げている。
二歩三歩とバックステップを繰り返すスカーレット。だが黒い靄のほうが速い。
ぐん、ぐん、とその距離を詰めてくる。
……もうだめ。呑みこまれる。
諦めかけたスカーレットは、ぎゅっと目を瞑った。
――二秒……三秒……
スカーレットにとっては永遠にも思える時間が流れたと感じられたのだけれども。でも、何かが起こったようには感じられない。
……どうなったの?
ゆっくりと目を開くスカーレット。すると。
そのすぐ目の前で、視界一杯に真っ黒な靄が蠢いている。もやもや。
「うひっ」
軽く悲鳴を漏らしながら、スカーレットはもう三歩ばかり後ずさるのだった。
そこまで下がって、ようやく周りの状況が見えてきた。
黒い靄は大きく球状に広がっていた。その拡大は止まっているものの、直径十メートルほどにもなろうかという大きさだ。悟だった黒い繭は黒い靄に覆われて、その姿を見ることができない。
先ほどの衝撃はスカーレットだけでなく、その場にいた皆に感じられたらしい。
あんなに大勢いた戦闘員たちは、その半数が気を失って倒れ込んでいた。残る半数も頭を
押さえてうずくまっている。
二人の怪人と、そしてシアンは、さすがに意識を保っているが、それでも足元がふらつくのを隠せないでいた。
……っ!
シアンから黒い靄へと視線を戻したスカーレットは息を呑んだ。
黒い靄が渦を巻くようにして、中心の繭へと吸い込まれていく。その様子はまるで、台風の衛星画像を連続再生で見ているようであった。ただしその色は、白ではなく黒なんだけれど。
黒い靄を吸い込んで、その繭は、一回り、いや二回りほども大きく膨らんでいた。
黒い靄が、もやもやと蠢いていたその場所には、すっかりと何もなくなっていた。そう、まったく何も、だ。例えるならば、クレーターのようだと言えばいいか。
魔法少女が変身した際にクレーターができる、その状況と非常によく似かよっていた。
「スカーレット、大丈夫?」
ふらつく足どりで、シアンが近づいてくる。
「うん、私は大丈夫だけど。シアンの方こそ大丈夫じゃなさそうだよ?」
「さっきのは強烈だったからね。ちょっとすぐには戦えなさそう」
「ええっ! それじゃあ、戦力一二〇パーセントダウンだよ」
「ちょっと、それじゃスカーレットの戦力がマイナス二〇パーセント以下ってことになるじゃない」
「あ、ばれた?」
「もう」
会話の内容は軽いものの、シアンの状態はかなり深刻だ。足元はふらつき、いっこうに治まる様子が無い。まっすぐに歩くことさえ困難なようである。
「でも……これ、かなりヤバくない?」
スカーレットの本音が漏れる。
「そうね。それでも、襲ってきた怪人と戦闘員が動けなくなってるのは不幸中の幸いと言えるかしら」
じっと動かない黒い繭。じっと動けない怪人と戦闘員。じっと動くことをためらっている魔法少女。
またもや静かな時間が流れる。と。
――ぶおん。
激しいエンジン音を轟かせて、一台の大きなSUVが走り込んできた。




