自覚
その日アネットはいつもより早く部屋を出て、学園へと向かった。
(お姉様から何もしないように言われたけど、状況把握だけはしておかないと)
あれからアネットがしつこい程に訊ねてもクロエは黙って首を振り、当初の意見を変えず自分と距離を置くように諭し続けたのだ。一向に譲らない姿勢にアネットはクロエの意思を尊重すべく折れざるを得なかった。
(まずはエミリア様本人に話を聞いてみなくちゃ)
クロエが何も話さないのは、エミリアがアネットの友人であることだけが理由なのだろうか。
あの時クロエが幼少時代のことに触れたことがアネットは気に掛かっていた。
嫌がらせと言っても心当たりと言えば最初の頃にちょっと邪険にされたぐらいで、それについてもクロエは謝ってくれたのだ。それなのに、何故今そんな言葉が出て来るのか。
そんなことを考えつつエミリアの元に向かおうとしていたアネットだが、教室の窓ガラス越しに見えたエミリアとリシャールに気づき足を止める。
(何で……リシャール様がエミリア様と一緒にいるの?)
女性と一定の距離を置いているはずのリシャールが、エミリアと向かい合って話していた。エミリアが何かを伝えると、リシャールの瞳が和らぎ僅かに口角が上がる。その親密さを感じさせる光景にアネットは呆然としながら目を離せずにいた。
そんな視線に気づいたのか、ふとリシャールが顔を上げるとその表情に驚きと戸惑いが浮かぶ。
覗き見していたような気まずさがあったが、自分の教室に入るのはおかしなことでもないし、エミリアに話を聞かなければならない。
正当な理由があることを心の中で確認してアネットは意識して笑顔を浮かべて、二人の元へと向かった。
「エミリア様、リシャール様、おはようございます」
「ああ、おはよう」
どこか気まずそうな表情で返すリシャールだったが、エミリアはというと眉を下げて困ったような表情を崩さない。それどころかリシャールの袖を引き、不安そうに呼び掛ける。
「……リシャール様」
胸の奥が熱く引き連れる感覚に気づいて、アネットはようやく己の愚かさを悟った。それでもエミリアと話をしなければならない。
「エミリア様と少しお話をしたいのですが、よろしいでしょうか?」
(淑女教育を受けていて良かった)
どんな感情が心の裡で揺れていても、上品な微笑みを浮かべていられるのはジョアンヌのおかげだ。だがそれもリシャールが口を開くまでだった。
「それは俺がいても構わないか?」
意外な発言に目を瞠ったのは驚きからだったが、リシャールは別の意味でとらえたようだ。
「いや、女性同士の話であればもちろん遠慮するが――クロエ嬢とのことであれば同席させてもらいたい」
「それは、どういう意味でしょう?」
声が僅かに鋭くなったのは、動揺していたためだろう。だが非難するような響きを帯びたことで、リシャールは少し躊躇うような様子を見せたあとに信じられない言葉を口にした。
「君はクロエ嬢のことになると少し過剰反応するきらいがある。クロエ嬢の言葉だけで物事を判断するのは良くないし、もしアネット嬢がそれを強要されているのであれば――」
「っ、リシャール様!」
それ以上は耐えられなかった。確かにアネットはクロエに傾倒しているのは事実だが、クロエがそれを強制していると疑念を抱かれているのだ。ましてや面識がほとんどない他の貴族子女ではなく、親しくしていたリシャールからの言葉であることが苦しくて痛くてたまらない。
そんなアネットを見てリシャールの表情に動揺がよぎり、一方的に糾弾しようとしたわけではないのだと分かってアネットは少しだけ安堵する。
「誰がそんな酷いことを……。お姉様を貶める発言をしている方をご存知でしたら教えていただきたいですわ」
僅かに震える声はショックを通り越して怒りが滲む。それにエミリアが反応したのをアネットは見逃さなかった。
「エミリア様、お心当たりがあるようですが、どういうことなのでしょう?」
「アネット嬢、落ち着いてくれ」
アネットが一歩踏み出すとリシャールがエミリアを庇うように間に入った。
(馬鹿なアネット……)
自嘲するように胸の中で呟きながら、アネットは小さく息を吐く。全ては自分の愚かさが招いたことならば、自業自得というものだ。そしてあまり器用ではない自分が取れる最善の行動は、たった一つの大切な物を優先することだけだった。
「私の大切なお姉様を侮辱するのなら、私は誰であっても容赦しません。それがナビエ公爵令息様、貴方であってもです」
冷やかな口調にリシャールが息を呑むのが分かったが、選ばなかったものへの未練を切り捨てるために、自分を律するためにはどうしようもなかった。
エミリアはリシャールの背後に隠れていたが、アネットと目が合うと怯えたように顔を伏せた。先ほどのリシャールの問いかけがエミリア自身の発言かどうか分からないが、それでもアネットに何の弁解もしないのであれば、後ろめたいことがあるからだろう。
そもそもアネットに近づいたのも、クロエだけでなくリシャールが目的だったのかもしれない。
様々な感情が込み上げて来て、アネットは教室から出て行った。これ以上二人と同じ空間にいれば、醜態を晒してしまうような気がしたからだ。背後でリシャールの呼び止める声やエミリアが何かを必死で訴える声が聞こえたが、アネットは振り返らなかった。
当てもなく歩いていると、いつの間にか中庭に辿りついてしまった。人気がなく朝の瑞々しい草花の香りがささくれた気持ちを落ち着かせてくれる。
(今更気づくなんて、本当にどうかしているわ)
エミリアとリシャールの二人を見た時に、心に落ちた感情は嫉妬だった。公爵令息だから、一緒にいるのは今だけだからと遠ざけておきながら、彼と交わす会話や雰囲気に心地よさを感じていた。
リシャールが与えてくれる優しさに甘えるばかりで、それ以上考えようとしなかったアネットに今更想いを告げる資格などない。好意を伝えたところで困らせるだけなのは目に見えている。
まだリシャールがアネットに好意を持ってくれている時に気づいたのなら、どうなっていたのだろうか。意味のない仮定の想像が惨めさに拍車をかける。
『アネット、わたくしはもう大丈夫よ。だから心配しないで』
『君はもう少し自分のことを考えてみたほうがいい』
クロエやフェルナンの言葉の意味がじわりと心に沁み込むようだった。彼らが気づいていたことから目を背けたのは自分自身だ。
(手に入らない幸福を望むのは怖かったから)
一緒にいられないのなら最初から手を伸ばさなければいい。それは諦観というよりも傷つきたくないと言う身勝手な保身だったから、自分の感情から目を逸らしてなかったことにしようとしていた。
だからアネットに悲しむ資格などないし、涙を流してもいけない。
昂った気持ちを逃がすように深呼吸をしながら、ゆっくりと心の整理を行う。
「大丈夫。お姉様とは仲直りができたもの。大切な人が一人でもいるのなら幸せなことだわ」
辛い時ほど笑っていればそのうち本当に笑えるようになるのだと、かつての教育係であるジョアンヌは教えてくれたのだ。
口角を上げて作った淑女の笑みは自分では見えなかったが、アネットは何となく大丈夫だと感じて、ゆっくりと教室へと向かった。




