55 憧れと罪悪感
自分がため息を吐いたことに気づいて、アネットは小さく自嘲の笑みを浮かべた。ここ最近どうも上手くいっていないような気がするが、それは大したことではなくふとした瞬間に心を曇らせる些細なものだ。
文字を追っていても中身は頭に入って来ず、視線を上げれば少し離れた場所にいる友人の姿が視界に入った。
陽光が当たった髪は僅かに青みがかっていて艶やかに輝いている。静謐さを感じさせる雰囲気で身じろぎせずに本を読むリシャールは、まるで一枚の絵画のようで思わず見とれてしまいそうなほどだ。彼にどれだけ冷たくあしらわれても思慕を募らせる女性が多いというのも頷ける。
結局あれからタイミングを逃してしまった。微妙な距離を保ったままだが、今度は踏み込んでよいものかと躊躇いが生じてしまったからだ。
それでもリシャールが友人であることに違いはなく、こうして一緒の空間にいると安心感を覚える。
「あの、アネット様……」
その呼び掛けに凪いだ心が僅かに波立つ。感情を切り替えて振り返ると、不安に揺れるマノンの瞳と目が合った。
「……何かしら?」
努めて柔らかい口調でアネットはマノンに向き合うが、怯えの気配は和らぐことがない。
「あの、何か用があるわけではなくて……、その、お近くの席に…座っても構いませんか?」
「ええ、勿論よ」
学校の図書館に指定席などない。選民意識のある一部の高位貴族などはそもそもこのような公共の図書館に足を運ぶことなどなく、自宅に併設されている書庫などを利用する。
「っ…ありがとうございます!」
安堵したように笑みを浮かべるマノンを見て、罪悪感のようなものが胸をよぎる。
(悪い子ではない…と思う)
クラリスの件で知り合うこととなったマノンは、夏休み明けからアネットに話しかけてくるようになった。内気な性格だが行動力はあるのだろう。毎回緊張しながらもアネットに挨拶し、本人としてはかなり気を遣って声を掛けてくれているようなのだが、傍から見れば怯えているようにしか見えない。
だからこそアネットも柔らかい口調と雰囲気を意識しているのだが、残念ながらあまり効果はないようだ。そんなに無理をするなら話しかけてくれずとも良いのだが、マノンは恥ずかしそうに俯きながらも教えてくれた。
『私、アネット様に憧れているんです……。可愛らしくて聡明なのに控えめで…とても素敵な方だと……』
伏せた顔を上げれば輝く眼差しに嘘は混じっていなかったと思う。だけどアネットは居心地の悪さを感じてしまったのだ。
確かに努力はしたのだが、聡明だと評されても前世の記憶と経験が大いに貢献していることは否めない。何となくズルをしてしまった気分になったこともあるが、それについては幼少の頃に割り切った。
マノンに対して抱く罪悪感はアネットが彼女に対して興味を持っていないからに他ならない。
第一印象のせいだろうかと自問したこともあるが、どちらかといえば相性の問題なのだとアネットは思っている。前世でも同性異性関わらず友人は少なかったし、排他的な性格だったから人に合わせることを苦手としていた。
レアとフルールと容易に親しくなったのは彼女たちの性格や考え方が大きい。
レアは男性優位な貴族社会に珍しく入学前から領地経営に参画しており、その考え方や視点などは学生というより若き経営者のものだ。フルールは本や研究が大好きで、将来学者になりたいと思っている少々変わった令嬢である。
だからこそ変わり者である自覚があるアネットとはウマが合ったのだろう。そして彼女たちは自立心が高く、立場を理解して行動することができる。
アネットと仲良くなっても、その縁を利用して積極的にセルジュやリシャールと関わろうとせず、最初の頃はクロエにも一歩距離を置いていたのはそのためだ。
読んでいるふりをしている本から少し顔を上げれば、それに気づいたマノンもぱっと顔を上げて眉を下げながらも笑顔を向けてくる。
曖昧に微笑んでアネットは溜息を押し殺す。自室に戻ろうにももう少し時間を置かなければマノンが気にするだろう。
そう考えることに煩わしさを覚える自分が冷たい人間だということを思い知らされる。
だがマノンと必要以上に仲良くなればアネットが負担に思うことは増えてくるだろう。クラリス以外に友人がいなかったというマノンは恐らくアネットと友人になりたがっているが、気づかない振りをしている。マノンの思う友人とアネットのそれは一致しないからだ。
様子を見ている限りマノンは依存性が高い子だ。懐いてくる感じは可愛く思うのだが、あまり頼りにされると身動きが出来なくなる気がする。その時になって距離を置こうとしても相手を傷付けるどころか、周囲から余計な批判を受ける可能性だってあるのだ。
アネットが貴族令嬢として振舞うのはルヴィエ家のためではなく、クロエへの攻撃の隙を与えないためだという理由が大きい。だからこそマノンを拒絶こそしないが、必要以上に親しくすることもないのだ。
「アネット」
「お姉様!」
ぴょんと椅子の上で小さく弾んでしまったアネットを、クロエは困ったように僅かに眉を下げながらも口角が上げた。それを見逃すアネットではないため、ますます嬉しくなるが淑女としての在り方を思い出して自重する。
「一緒に帰りましょう。その本は借りて行くのかしら?」
「いえ、戻してきますね」
いそいそと本棚に向かうと先ほどまでの憂鬱な気分は消えていた。身勝手だと思うがアネットの大切な存在はクロエだけなのだ。
わざわざ迎えにきてくれたクロエにお礼を言いながら、アネットは満ち足りた思いで図書館をあとにしたのだった。




