40 クロエの誓い
「アネットは……リシャール様のことをどう思っているの?」
食後のお茶を頂いていると、クロエから不意に訊ねられた。驚いて顔を上げると真剣な表情のクロエと目が合い、居住まいを正して答える。
「以前はただの同級生として認識しておりましたが、今は友人だと思っております」
気づいたばかりの心情を告げると、クロエは小さく嘆息した。
「お姉様、リシャール様には本当に良くしていただいていますわ」
少し前までクロエはリシャールに対して悪感情を抱いていたので、今回のことでリシャールの印象が悪くなってしまったのなら申し訳ない。
「いえ、そうではないの。アネットが望むのなら構わないのよ。……ただ今回のように危ない目に遭うのであれば、リシャール様とは距離を置いたほうが良いのではないかと思ってしまったの」
クロエの言葉にアネットが考えたのは数秒のことだった。
「ではリシャール様に明後日お話ししておきますね」
「アネット!?」
さらりと伝えれば目を丸くしてクロエが驚きの声を上げた。
「殿下も最初おっしゃっていたように、それで嫌がらせが止むのなら誰も傷つきませんもの」
協力してもらったリシャールには申し訳ないが、それはアネットが飲み込めばいいだけの感傷だ。友人だと思えるぐらいの存在ではあるが、それは学園内だけの関係性であり卒業してしまえば身分も異なる上に、ましてや将来平民になる可能性のあるアネットには遠い存在になる。
(それならば今離れてしまっても問題ないわ)
以前目にした悲しそうなリシャールの表情を頭から振り払っていると、落ち着かないように彷徨っていたクロエの瞳がまっすぐにアネットを捉えた。
「アネット、それは違うわ。リシャール様はきっと傷つくし、貴女だって友人だと思っている相手を切り離して平気な子ではないでしょう。…わたくしの不用意な発言で惑わしてしまってごめんなさい」
しゅんとしてしまったクロエに、アネットは配慮が足りなかったと必死で頭を巡らせる。
「いえ、リシャール様は私のことを友人と思ってくださっているか分かりませんし、どのみち一時的な関係ですから。逆の立場であれば私もお姉様を説得したと思います」
「一時的な関係?」
うっかり言葉にしてしまった言葉にクロエが敏感に反応する。ミリーは既に下がっていてクロエと二人きりだ。
少し緊張しながらもアネットは侯爵家に留まるつもりがないこと、卒業後は平民としてどこかで職を得ようと考えていることなどを打ち明けた。
「……アネットと会えなくなるのね」
ぽつりと漏れたクロエの第一声が、貴族令嬢としての義務を放棄するアネットへの叱責でなかったことにアネットは安堵する。アネットの考え方は普通の貴族であれば眉をひそめるものに違いない。
「お父様には育ててもらって教育を施してくれたことに感謝の気持ちもありますが、それでもお父様の望むとおりの人生を思い描くことができないのです。そのために掛かった費用は一生かけても支払いたいとは思っているのですが」
散財はしなかったが、侯爵家で与えられたものは決して安価ではなく恐らくかなりの額になる。だからと言ってそれすらも放棄してしまうような無責任な人間になりたくなかった。
前世で生きた年齢に満たないとはいえ、貴族の常識や生き方をアネットは知っている。政略結婚が当たり前の世界で相思相愛の結婚する者など一割にも満たないだろう。
だがアネットにとって、それはひどく寂しく疲弊するものに思えた。誰かに愛されたいと切実に願うわけではないが、そのような未来よりも一人で生きる力が欲しい。
そんなアネットにクロエは真剣な表情のまま、アネットの頬に両手を添えた。
「リシャール様を手放さないでちょうだい」
懇願するような口調にアネットは戸惑ってしまう。
「アネットはわたくしに多くの大切なものを与えてくれたわ。だからこそわたくしは貴女に何一つ諦めて欲しくないの。学園に通う間しか一緒にいられないのなら、わたくしの用いる全てを使って貴女を守るわ」
それはまるで厳粛な誓いのように澄み切った泉のような清らかさがあった。クロエの想いがアネットの心にじわりと沁み込んでいく。
「――お姉様、ありがとうございます」
伝えたいことはたくさんあるのに、それ以上言葉にすることが出来ない。クロエはそんなアネットを甘やかすように優しく頭を撫でて微笑んだのだった。




