39 推しを悲しませてはいけません
教室に戻るとセルジュとクロエが残っていてくれた。一瞥して分かるところに痣はないが、アネットの目が赤くなっていたことに気づいたクロエの表情が曇る。
(私のせいでお姉様を悲しませてしまった…)
クロエの反応に落ち込むアネットを気遣ってくれたのか、リシャールが代わりに事の経緯を伝えてくれた。
「俺の力不足でアネット嬢を危険に晒した。クロエ嬢、すまない」
「っ、違いますよ!私の軽率な行動が原因なので、これは自業自得です。リシャール様は悪くありません」
クロエに頭を下げるリシャールに慌ててアネットは説明する。クロエは怪我をしたアネットをただ痛ましそうに見ているが、セルジュは珍しく険しい表情だ。
(殿下は私と似ているから…)
アネットの中でセルジュはクロエに対する好意と反応から、単なる友人というより推し友という感覚だった。だからこそこの状況で犯人に対してはもちろんだが、アネットに対する怒りも僅かに感じ取れる。大切な推しを悲しませることはあってはならないのだ。
「お姉様、ごめんなさい。殿下もお騒がせしてしまって申し訳ございません」
クロエの心を乱したことが伝わるような言い回しで詫びれば、意図は伝わったようでセルジュの眼差しが和らいだ。
「私に詫びる必要などないよ。それよりも直接的な暴力を受けたのであれば、こちらも少々立ち回りを考えたほうがいいだろうな」
いつもより低い声音にひやりとする。アネットに何かあればクロエが悲しむと知っているセルジュは何か行動を起こすつもりのようだ。クロエに影響を受けないことはもちろん歓迎なのだが、事が大きくなりすぎてもよくない。王族とてそれなりの制限があり、セルジュの行動によってクロエが逆境に立たされる可能性だってあるのだ。いつでも第二王子の婚約者として正しく振舞わねば、政敵や野心家に足元を掬われる。
(もちろん殿下だって分かっていらっしゃるはずだけど、私と同じくお姉様のことに関しては少々冷静さを欠く傾向にあるから心配だわ)
「セルジュ、お前は動くなよ?学園内でしかも学生同士のいざこざに権力を使えば、厄介なことになる」
そんなアネットの内心を代弁するようにリシャールが窘める。にっこりと笑みを深めたセルジュに不安を覚えたが、クロエが呼び掛けるといつも通りの笑顔に変わった。
「アネット、今日はわたくしの部屋で過ごしましょう」
幸い明日は週末であり、怪我を気遣っての提案にアネットは喜んで甘えることにした。セルジュとリシャールに別れの挨拶をすれば、リシャールから声を掛けられる。
「アネット嬢、明後日は何か予定があるだろうか?渡したいものもあるし、一緒に街へ出掛けないか?」
お茶会や刺繍、買い物などを好む貴族令嬢と違って、アネットは読書や勉強、お菓子作りなど部屋で過ごすことが多い。今週末も2週間後に学期末の試験を控えていることから、部屋で勉強でもしようかと思っていた。
(予定がないと言えばないのだけど……)
ちらりとクロエの様子を窺えば、特に目を合わせることもないため、アネットの判断次第だということだろう。怪我をして心配しているとはいえ、今回のことはリシャールの責任ではないと判断したようだ。それならば、とアネットはリシャールの提案を受け入れることに決めた。今の自分には気分転換が必要だという気がしたのだ。
「お誘いありがとうございます。私でよければ喜んで」
そう伝えれば、嬉しそうというよりも安心したようにリシャールは微笑んだ。僅かに眉尻を下げたセルジュが気になったものの、アネットはそのままクロエとともに寮へと向かった。




