38 失くしたもの
図書館で詩集を手に小さな声で語らっていると、いつもは見かけないような令嬢たちの姿が視界に入った。遠巻きにこちらに視線を送って様子を窺いながら、声をひそめて何やら話し込んでいる。
たった半日のことなのに、噂がすっかり広まってしまったようだ。貴族たちの情報収集能力は高さには正直驚かされる。
(そろそろ頃合いかしら?)
機を見計らっていたアネットはここで仕掛けることに決めた。
「リシャール様、少し失礼いたしますね。すぐに戻ってまいりますわ」
この言い回しで何処にと問いかけるような貴族はいない。リシャールは制止の言葉を口にしないものの難色を示している。だが流石に化粧室に一緒に行くのは無作法だ。
それを見越してアネットはリシャールの返事を待たずに図書館から出て行った。
何か行動を起こすだろうと敢えて化粧室に留まっていたが、誰かが来る様子もない。親切な忠告や嫌がらせを期待していたアネットは拍子抜けした。
「まあ流石に今動くとあからさま過ぎるわよね…」
一人きりになったのだからアネットを快く思わない相手にとっては絶好の機会だと考えていたのだが、無駄だったようだ。図書館にいない可能性もあるのだからとアネットは頭を切り替える。
(焦っても碌なことがないわ。一旦落ち着かないと……)
クロエに心配を掛けたくないという気持ちもさることながら、誰か分からない相手から悪意を向けられているという状況は心がじわじわと摩耗していく。
鏡を見てにっこりと笑みを浮かべて、きちんと笑えているかを確認する。リシャールにも心配を掛けたくない、そう思った自分に少し戸惑ったが、知らないうちに同級生から友人という認識に変わっていたのかもしれない。
クリーム色のリボンを見て、アネットは静かに微笑んだ。
油断していた、というよりか意識を他に向けていたのがまずかった。何の成果もなく、ただリシャールを待たせた形になっていたので、図書館に戻ることしか考えていなかったのだ。
化粧室を出て数歩進んだところで、不意に背中に強い衝撃を感じた。咄嗟のことで踏みとどまることなど出来ず、アネットは思い切り床に倒れ込んだ。両手を前に出して顔面を強打しないようにするのが精一杯だった。
(……何が起こったの?)
固い床とぶつかった痛みよりも困惑が勝る。僅かに髪が引っ張られる感覚があって、思わず身を強張らせたが、バタバタとすぐに足音が続いてアネットは我に返った。
急いで身体を起こして振り向いたが、そこには誰の姿もなかった。化粧室のすぐそばは階段に続く曲がり角だ。手遅れだと思いつつ痛む身体を無視して、角を曲がったがやはり人の姿も気配もない。
信じられない失態にため息を吐くと、頬に髪の毛がかかる。思わず髪を撫でれば先ほどまで結んでいたリボンがなかった。廊下を見渡しても見当たらず、背中を押した人物が持ち去ったのだと気づいて愕然とした。
「アネット嬢!」
なかなか戻らないアネットを心配したのか、リシャールが駆け寄ってきた。
「…何があった?大丈夫か?」
倒れた拍子に制服は少し乱れていたし、何よりアネットの様子に察するものがあったのだろう。
「少し、転んでしまって……」
きちんと話さなければいけないのに、込み上げてくる感情のせいで上手く言葉にならない。
「保健室に行こう。もし歩けないようなら俺が抱えていくから」
俯いたまま無言で首を振ると、リシャールが手を差し出した。子供ではないのだから大丈夫だ、いつもであればそう答えるだろう。アネットがそっと手を重ねれば、気遣うように優しくリシャールは手を引いてくれたのだった。
幸いにも途中で他の生徒とすれ違うこともなく、保健室に辿り着いた。養護教諭に転んでしまったと告げれば、呆れたような表情をされながらも丁寧に手当てをしてくれた。膝や手の平が赤く腫れていて、勢いよくこけたのが分かるためお転婆な令嬢だと思われたのだろう。
「アネット嬢、何があったのか話せるか?」
養護教諭が準備室に消えたのを見て、リシャールはいつもより優しい口調で訊ねた。
手当てを受けている間、ずっと話す内容を整理していたので大丈夫だと思っていたのに、リシャールの気遣いに落ち着いた心が波立つ。
アネットは深呼吸をすると、出来るだけ淡々と起こった事実だけをリシャールに伝えることにした。
「折角の機会を無駄にしてしまって、申し訳ございません」
話し終わったアネットは深く頭を下げた。協力してもらったのに、犯人の情報を何一つ得ることができなかったのだ。申し訳なくてリシャールの顔を見ることができない。
「アネット嬢、謝るのは俺のほうだ。必ず守ると約束しておきながら、君に怪我をさせてしまった。……怖かっただろう」
最期に付け加えられた言葉が、アネットの心の何かに触れた。ポロリと涙が零れ落ち、慌てて感情を制御しようとする前に、リシャールはアネットの前に跪きそっと指先を手に取った。
「本当にすまない……俺がもっと気をつけねばならなかったのに。アネット嬢は何も悪くない。本当によく頑張ったな」
リシャールがわざわざ膝を折ったのは、悪意に晒されたアネットを怖がらせないため。優しい言葉はアネットが自分を責めないためのもので、止まらなくなった涙とともにアネットは胸につかえていた思いを吐露した。
「…っ、リシャール様、ごめんな…さい。リボン、盗られちゃった…。……せっかく、くれたのに……大切にしてたのに……ごめんなさい…っ」
仕方なく持っていたはずのリボンは、いつの間にか大切な物に変わっていた。
ルヴィエ家に引き取られてからは、心が弱った時に宝箱を開いた。僅かな物しか入っていないが、そこにある柔らかなリボンの色は確かにアネットの心を慰めてくれたのだ。
預かり物だったからずっと使わないのだと思っていたが、本当は大切だから使いたくなかったということにアネット自身気づいていなかった。
怪我をしたことよりもリボンを奪われたことがショックであったし、すぐにリシャールに知られたことも申し訳ないような、ひどく物悲しい気持ちになってアネットは動揺したのだ。
「……大事にしてくれていたのか」
俯いて涙を流していたアネットはリシャールがどんな表情をしていたのか知らない。だがアネットが泣き止むまでリシャールはただ静かに傍にいてくれたのだった。




