34 お姉様は静かに怒ります
翌日、教室に一人の少女がアネットを訪ねてきた。
「カディオ伯爵家のクラリスと申します。昨日はアネット様に大変ご迷惑をお掛けしたと伺いました。本当に申し訳ございません」
ゆるくカールして青みがかった灰色の髪、華奢な体躯、潤んだ焦げ茶色の瞳を見ていると何もしていないのに罪悪感を覚える。迂闊に触れれば壊れてしまいそうな儚い雰囲気の少女なのだ。
リシャールがいなければ、二人とも階段を転がり落ちていたはずなので、どちらかといえばアネットは被害者の立場ともいえるのだが――。
(わざと…ではなかったのよね?)
立ちくらみを起こしてしまったというクラリスの言葉は、その儚い容姿からなるほどと思ってしまう。
受け止めた時の違和感はもはや気のせいだとしか思えなかった。アネットにぶつかってしまったものの、あのままだとクラリスも怪我をしていたのだ。
「いえ、クラリス様こそ体調は大丈夫ですか?どうかご無理をなさらないでくださいね」
アネットが労わりの言葉を掛けると、クラリスの瞳からポロリと涙がこぼれた。自分の言動がきっかけで泣きだしてしまったかのようなタイミングに、アネットは思わず動揺してしまう。
「えっ、クラリス様?!」
「すみません、怪我をさせるところだったので色々と厳しいお言葉を覚悟をしていたのですが、気が抜けたようですわ。お見苦しいところをお見せしました」
恥じらいながら赤みが差した頬を両手で押さえるクラリスは、庇護欲をそそり非常に可愛らしい。
「ぁ…リシャール様」
クラリスの言葉に振り向くと背後にリシャールが立っている。無言でアネットとクラリスを見比べたあと、問いかけるような眼差しを向けるのでアネットが小さく頷けば、そのまま教室から出て行った。
(何かトラブルかと心配してくださったのよね)
いつも感情を表に出さず、氷のような冷たさを感じる静かな表情で心の中が読みにくいと思っていた。だが僅かな表情の変化は意外と雄弁で、最近は何となくリシャールの気持ちや考えがくみ取れるようになってきたのだ。
そのことを嬉しく感じながら、クラリスへと視線を戻して、ぎくりとした。
「リシャール様にも改めてお礼を申し上げたかったのですが、お声を掛ける勇気がありませんでしたわ…」
悲しそうに眉を下げるクラリスの言動は心からのものに聞こえる。
(あれは……見間違いなのかしら?)
視線を戻したほんの一瞬、クラリスが人形のような無機質な瞳でこちらを見ていたような気がした。それまでの可憐な少女の姿を見ていただけにその落差を恐ろしく感じる。
それを押し隠すようにアネットは笑みを浮かべて、クラリスを気遣う言葉を掛けると、なるべく自然な様子でその場を辞去したのだった。
あまりクラリスとは関わらないほうが良いかもしれない。
そんなことを考えていたアネットに、クロエから授業後に部屋でお茶をしようと誘いがあった。大好きなクロエからの声掛けに即座に飛びついたアネットだったが、本当に怖い思いをすることになるのは放課後だった。
「アネット、わたくしに何か隠していることはないかしら?」
オレンジの花の香りがする紅茶を楽しんでいると、何気ない口調でクロエが訊ねた。
「お姉様に隠していること、ですか?」
大好きなクロエと一緒に過ごすティータイムをアネットは心から楽しんでいたため、それが何を指しているのかすぐに分からなかった。その結果、クロエはアネットが惚けているのだと思ってしまったのだ。
「……最近、リシャール様と親しくしていらっしゃるでしょう。あの方には話してもわたくしには何も言ってくれないのね」
何やら拗ねたような響きを感じ取って、アネットはその時点でようやくクロエが怒っていることに気づいた。
「お、お姉様!!」
「わたくし、言ったわよね。酷いことをされたら守ってあげるから、ちゃんと教えてちょうだいって。それなのに……アネットはわたくしの言葉など信じていないし、どうでもよいのね」
表情や口調はあまり変わっていないが、クロエは先ほどから一向にアネットと視線を合わせない。淡々とした言葉がかえってクロエの怒りを表わしているようで恐ろしくなる。
「お姉様、違います!誤解です!お姉様を決して蔑ろにするつもりなんてなく――」
「良いのよ、リシャール様のほうが頼りになるのでしょうから」
「お姉様!!!!」
取り付く島もないクロエに動揺したアネットは勢いよく立ち上がったものの、どうして良いか分からない。頭が真っ白になったアネットは号泣しながらクロエにひたすら謝ることしかできなかった。
「落ち着いた?」
「っく、はい…。お姉様、ごめんなさい」
ようやく泣き止んだアネットの頭を撫でるクロエの手は優しい。
「もう怒ってないわよ。そもそも相談して欲しいというのはわたくしの我儘だからこれは八つ当たりのようなもの。謝るのはわたくしのほうね」
自嘲するような笑みを浮かべるクロエに、居たたまれない気持ちになる。また泣きそうになるのをぐっと堪えて、アネットはクロエに教科書の件を打ち明けることにした。




