32 悪意と罪悪感
教科書の件から3日経ったが、あれから何の嫌がらせも受けてはいない。
(でも油断する頃が一番危ないのよね)
前世の経験からアネットは悪意に敏感だった。ほんの些細なことでも人は簡単に他者を傷つけ、陥れるのだということを知っている。
生意気そう、目つきが気に食わない、それだけでイジメのターゲットとされた高校生時代があったからこそ今は平然とした態度を取ることが出来るのだ。初めての体験だったなら、不安に苛まされ、すっかり怯えていたかもしれない。
今回は教科書だったが、なかなか暴力的な気配のする嫌がらせは自分の身に向けられる可能性も視野に入れている。
アネットは周囲に気を配りながらも人気のない場所を避け、一人にならないように過ごしていた。その日々が今後もしばらく続くと考えれば多少精神力が削られるが、仕方がない。
(リシャール様に知られた時は困ったことになったと思ったけれど、結果的に味方になってくれて良かったわ)
リシャールには教科書を取り出した時に硬直したところを見られていたため、何かあったのだと気づいたそうだ。
約束通りクロエにもセルジュにも黙っていてくれていて、さりげなくアネットが一人にならないよう側にいてくれたり、身の回りにも気をつけてくれている。
「アネット嬢、図書館に用があるからついでに返却しておくが?」
図書館までの通路はあまり人通りが多い場所ではない。返却期限が近づいているが、クロエや友人たちと行動を共にして巻き込む羽目になったらと躊躇すらアネットにリシャールが声を掛けてくれた。
流石に図々しいと思って断った結果、距離を保ちつつ一緒に向かうことになった。
アネットの噂を考慮したリシャールの行動に、随分と大きな借りが出来てしまったと思った。
一方的に何かをしてもらうのは好きではないのだ。対等な関係でなければ、いつかバランスが崩れてしまった時に失うものが多い。
(それでもやっぱり有難いから、学園にいる間に借りを返してしまわなければ。リシャール様とは関わる機会がなさそうだし)
そう思うと少し寂しい気もするが仕方がない。
リシャールが自分に対して淡い恋情を抱いているようだと察してはいるが、次期公爵であるリシャールに婿を迎えたいルヴィエ家は条件に合わない。
そもそもアネット自身は侯爵家を捨てて自立して生きていくつもりなのだから、二人の間に特別な感情が芽生えたとしても成り立たないのだ。
リシャールを利用しているようで、少し罪悪感を覚えるアネットだったが、頼りになる存在を遠ざける気にはならない。
ぼんやりと考え事をしていたアネットは階段から下りてきた少女に注意を払っていなかった。
すれ違う直前に急にバランスを崩した少女がアネットの方に倒れ込んでくる。反射的に抱き留めようとしたが、足場の悪い階段では踏みとどまることができず浮遊感に思わず目を閉じた。
「アネット嬢!」
覚悟していた痛みはなく、すぐそばでリシャールの声が聞こえてアネットが目を開くと、腕の中にくたりと脱力した少女の姿があった。背後に感じる温もりでリシャールが支えてくれたのだと気づいたアネットは、気を失った少女が落ちないようにそっと横たえる。
「リシャール様、この方は体調が優れないようです。保健室まで運んでいただけないでしょうか?」
少しだけ躊躇う素振りを見せたのはアネットを気遣ってのことだろう。
「私なら大丈夫ですよ」
「すぐに戻る」
そう言うなり少女を抱えてリシャールは階下へと向かった。それを見届けたアネットはこのまま図書館に向かうかどうか、逡巡した。
ほんの僅かな違和感を疎かにしてはならない。少女が倒れるタイミングや位置が何となく作為的な気がしたのだ。踏み留まろうとする気配がなかったこと、抱きしめた時に身体がこわばっていたのは意識があったからではないか。
(もしあの少女が病人の振りをしていたのなら、それはリシャール様と引き離すためかしら)
そう考えるなら図書館に行くことは悪手といえる。だがリシャールはすぐに戻って来ると言ってくれたし、嫌がらせをした相手が分かるかもしれない。
いつ相手が仕掛けてくるか分からない状態を続けるのは苦痛である。素早く利点と欠点を天秤に掛けたアネットは、意を決して図書館へと足を向けた。




