31 嫌がらせ
それは噂が下火になったと安心していた矢先の出来事だった。昼休みが終わり、机から教科書を取り出したアネットは一瞬自分が何を見ているのか分からなかった。
さりげなくノートを重ねて何気ない様子でクロエのほうを窺えば、セルジュと会話を交わしており、気づかれなかったことに小さな安堵のため息が漏れる。
平静を装って授業を終えると、アネットはクロエをセルジュに託して図書館に向かった。目的はただの時間つぶしであったが、一人で考え事をするのには最適の場所だ。
(嫌がらせには違いないけど、誰が何のためにしたのか。それによって対応を変えないと、余計に拗れかねないわ)
ロザリーたちは分かりやすい陰口や悪意のある噂などを流すものの、言い逃れができる範疇のものである。下手に物証を残し、のちのち大事になりかねないようなことには手を出さないだろう。
(私個人に対してなのか、お姉様への意趣返し、もしくはルヴィエ家への恨みなのか、それだけでも先に分からないとお姉様に塁が及ぶことになる……)
いくら考えても答えは出ず、無人になったであろう教室へと戻ることにした。
扉を開けるとアネットの机の前に人影があった。
「リシャール様?」
机の上にはアネットが隠しておいたはずの、表紙が切り裂かれた教科書が置かれている。
「何か心当たりがありまして?それとも……」
それを行ったのがリシャール本人なのか。本気で疑ったわけではない。だからこそ途中で口にするのを止めたのだが、アネットは自分の軽率な言動をすぐさま後悔した。
リシャールの琥珀色の瞳が大きく見開かれ、痛みを堪えるかのように右手で胸元を強く握りしめたのだ。
「君は俺がそんな人間だと思っているんだな……」
その声はただただ傷つき悲しみにあふれていた。
「っ、申し訳ございません!リシャール様を傷付ける意図はありませんでしたが、言葉が過ぎました。心からお詫び申し上げます」
謝罪のあとには沈黙がずっしりとした質量を持って教室を満たす。それを破ったのはリシャールだった。
「いや、このようなことをされて平然としていられるわけがないな。アネット嬢こそショックだっただろうに。しばらく一人で行動しないほうがいい」
その言葉に強張っていた身体が少しだけ緩んだように感じた。自分の身を心配してくれているのが伝わってきて安心したせいだろう。
最初の頃は何故か冷ややかだったリシャールだが、過去に接点があったことが判明してからはその気配はなく、それどころか気遣ってくれるようになった。
「お気遣いありがとうございます。……リシャール様、一つお願いがあるのですが」
言葉を切ったアネットにリシャールは軽く頷いて先を促す。
「お姉様には今日のことを伝えないでいただけますでしょうか?」
「それはつまりセルジュにも伝えるなということか。だが、これはアネット嬢だけに向けたものとは限らない。クロエ嬢はセルジュの婚約者なのだから、危険を知らせないわけにはいかないな」
リシャールの発言はアネットが危惧していたものと同じではあったが、現状でいえば被害にあったアネットが対象である可能性のほうが高い。
「この程度でしたら不快ではありますが、許容範囲です。それよりもお姉様を巻き込んでしまうほうが怖いし嫌なのです」
クロエは優しく頭の回転も速く、まっすぐだ。悪意を知っていても経験したことは少なく、それがクロエの心を損なってしまうのではないかと思うとアネットは気が気ではない。かつて傷付いた少女は捻くれることも俯いてしまうこともなく、心身共に健やかに育った。
(いつか傷つくことがあったとしても、今はまだ柔らかな微笑みを浮かべていてほしい)
「……ならばアネット嬢が嫌がらせを受けたら、どんな些細なことでもいい、俺に伝えてくれるか?君が約束してくれるなら勝手に告げるような真似はしない」
これだけで終わるだろうなどという楽観的な考えはアネットも持っていない。嫌がらせがエスカレートすれば黙っていないと暗に告げながらも、一旦は静観してくれるというリシャールの申し出は有難かった。
「承知いたしました。リシャール様、本当にありがとうございます」
「礼を言われるようなことではない。このような輩を見過ごしておけないから、それだけだ」
少しだけぶっきらぼうなのは照れ隠しだろうか。
それが年相応に思えてアネットはこっそり笑ってしまったが、リシャールの頬がほのかに赤くなったので恐らく気づかれていたようだ。
思わぬ悪意に重たくなっていた心がいつの間にか軽くなっていて、アネットは謝罪とともにもう一度お礼の言葉を告げるのだった。




