3 嫌がらせと「推し」への思い
遠慮がちなノックの音でアネットは目を覚ました。寝ぼけながらも返事をすると、メイド服を着た若い女性が入ってきた。
「夕食をお持ちしました」
トレイに乗っていたのはスープと小さなパンが一切れ。
(これはもしかしなくても嫌がらせかな?)
透き通ったスープの中には野菜の欠片が僅かに沈んでいるだけだし、パンも平民が食べるどっしりとした固いパンで、貴族が好む物ではない。
「ありがとうございます」
それでも笑顔でお礼を言うと若いメイドは申し訳なさそうな顔をしながらも、黙って出て行った。
(ふふん、大人げない真似をしていると分かっているならいいのよ)
雇用主から命じられれば断れないのだろうが、そこは自覚してもらわないと困る。罪悪感を募らせればこっそりと味方になってくれる可能性だってあるだろう。
「さて、いただきます」
冷めたスープだが素材や使っている出汁のお陰で旨味たっぷりだ。素朴な田舎パンとも相性が良く、しっかり噛むことにより味わいが広がり満腹感もある。
「美味しかったー。ごちそうさま」
満足して食事を終えてはたと気づく。一見質素な食事ながらも美味しくいただけたなら嫌がらせでもないのでは、と。
「まあ、いっかー。明日もお姉様に会えるといいなー」
そう気楽に考えていたのだが、アネットが本当の嫌がらせに気づくのは翌日のことであった。
「何ていうか、軟禁?」
食事は三食きちんと与えられているのだが、部屋の外に出ることを禁じられていた。奥様の許可が必要だと言われ、伝言を頼んでも一向に音沙汰がない。
簡素な部屋にはベッドと小さな机と椅子、そして小さなクローゼットのみ。
することもなく、3日目にして我慢の限界を迎えていた。
1階の奥の元々倉庫にでも使われていたような日当たりの悪い場所のため健康にもよくない。こっそり抜け出そうとしたこともあるが、しっかり外から施錠されていたのだ。
(かくなる上は食事を持ってきてくれた時に強行突破する!)
そのせいでご飯がもらえなくなるかもしれないと躊躇する気持ちもあるが、このまま無為な時間を過ごせば、心身に悪影響を及ぼすだろう。
メイド懐柔策も今のところ上手くいっているとは言い難い。初日のメイドから、少々性格に問題ありそうなメイドに変わっていたからだ。
「食事を与えているのだから大人しくしていろ」とでもいうようなぞんざいな態度には内心苛立っている。
表面上は大人しく困ったような顔を作っているが、それに対して優越感を時折覗かせるのは大人としてという以前に人としてどうかと思う。
「貴族令嬢として教養や知識を身に付けないと、恥を掻くのは侯爵家だと思うんだけどねー」
恐らく父カミーユは家のことや子供の教育について義母に丸投げしているのだろう。初日の様子から考えるとこのままでは役立たずのレッテルを張られるのは間違いない。前世の知識があるから、多少の常識やマナーを身に付けているとはいえ貴族のマナーは専門外だ。部屋の外に出たとしても行く場所もなく、家出したところで無意味なのは分かっている。
それなのに部屋から出たいと思うのは―
「クロエお姉様に会いたいよー!!」
多少理不尽なことがあったとしても、クロエの姿を見ることができるなら耐えられる気がする。前世では分からなかったが、きっとこれが「推し」というものなのだろう。
エゴや嫉妬などの負の感情が入り混じった恋愛感情などとは違い、憧れや尊敬など純粋な好意。物や風景などを愛でることはあっても、人に対してこんな感情を抱くなど思っていなかった。
「仲良くなりたいなんて利己的な思いはあるけどね」
こつこつと廊下から近づいてくる足音に、アネットは死角になるドアの位置に立ち、脱走のタイミングを見計らうことにした。
脱走は結果から言えば失敗した。
「待ちなさいよ!」
メイドの隙をついて部屋の外に出て全速力で走ったつもりだったのに、すぐに捕まえられてしまった。後ろからぐいと襟をつかまれて首が絞まる。
「余計な手間を掛けさせないでちょうだい!奥様に見つかったら私が叱られるんだから」
手首を強く掴まれて引きずるように連れて行かれる。
(子供の歩幅が憎い!せめてお姉様を一目だけでも見たかった!!)
「騒々しい。何をしているんですか」
低い男性の声にメイドがびくりと震えてアネットの手を離した。
「この子が、脱走しようとしたので…」
打って変わって怯えたようなメイドの態度に、アネットはこの男が上級使用人であることを察した。
「うるさくしてすみません。お父様とお義母様、それからお姉様にご挨拶がしたかったのです」
しおらしく答えるアネットをメイドが睨みつけてくるが気にしない。
「それなら朝食を一緒に摂られると良いでしょう」
(お姉様と一緒に朝食!逃げ出して良かったー!)
テンションが上がり、にやけそうになる口元を引き締めているとメイドが焦った声を上げる。
「っ、シリル様!奥様がお許しにならないかと―」
「カミーユ様のご意向です。奥様の許可は必要ありません」
冷酷に切り捨てるような口調に溜飲が下がる思いだが、どうやらシリルや父の直属の部下のようだ。
(あんまり信用しないほうがいいかもね)
食堂に案内するため背を向けたシリルがぽつりと漏らした。
「とりあえずは合格でしょう。自発的に行動できないような子供では困りますからね」
アネットが軟禁されていることを知りつつ黙認していたことを思わせる発言にアネットは内心毒づいた。
(それ育児放棄ですからー!!5歳児にどれだけハードル高いこと求めてるんだ!)