29 噂と生徒会長
その伯爵令息が現れた時点で嫌な予感しかしなかった。
「こんにちは、アネット・ルヴィエ侯爵令嬢。少し話がしたいのだけど、時間はあるかな?」
わざわざ教室を訪れた上級生の誘いを断れるわけがない。
入学式の時に一度顔を合わせたことのある生徒会長のフェルナン・シアマ伯爵令息の問いかけにアネットは淑女の笑みを貼りつけて応えたのだった。
「アネット様、シアマ会長はどのようなご用件でしたの?」
アネットは口にいれたばかりの鶏肉を咀嚼しながら、何と返答して良いかと束の間考えたが、結局そのまま告げることにした。
「生徒会のお手伝いをして欲しいと言われました」
「あら、それは生徒会へお誘いですわね。アネット様は優秀でいらっしゃいますもの」
素直な反応を見せるレアだが、アネットの予測は少々異なる。
「いえ、恐らく会長は殿下がお目当てかと…」
生徒会長であっても伯爵令息の身分で直接声を掛けるのは非礼だと判断したのだろう。クロエの妹であり、接点のあるアネット経由でセルジュとの繋がりを持とうとしたのだとアネットは推測していた。
「確かに王族の方々が生徒会長になるのは通例ですが、それならば直接お声掛けされると思いますわ」
フルールの言葉に同意はするものの、どことなくあの生徒会長は油断がならないとアネットは感じていた。
(なんていうか生徒会への誘いだけが目的じゃないような気がしたのよね…)
「アネットは、どうしたいの?」
ぼんやりとしていたが、クロエの問いかけにアネットはすぐさま切り替える。
「私は生徒会のお手伝いはまだ荷が重いと思っております。今は勉学に集中したいですわ」
嘘は吐いていないが、クロエや友人たちの時間が削られるのを防ぐこと、これ以上目立つのを避けたいのが本当のところだ。
同じ言葉をフェルナンに伝えたところ、返事は急がないと先延ばしされた形になった。そのことからも交渉に慣れた様子がうかがえたため、アネットの警戒度が高まったのだ。
フェルナンの意図に気を取られたアネットは、うっかり失念していた。本当に厄介なのは間接的に発生する他者の思惑であることを――。
「本当に誰彼構わず色目を使ってはしたないこと」
嘲笑を含んだ声とそれに追従するような忍び笑いにアネットは咄嗟に振り向いた。口元を隠して視線をこちらに向けないものの、該当しそうなグループはロザリーたちしかいない。本を譲った男子生徒も戸惑ったような顔をしていたが、アネットは会釈だけしてその場を離れた。
「あら、失敗したみたいね。悪いことをしたわ」
アネットに向けた悪意に巻き込むわけにはいかないとの判断だが、それもまた陰口のネタになるらしい。
(珍しく図書館にいると思ったら粗探しのためにわざわざ来たのかしら?よっぽど暇なのね)
相手にしなければそのうち飽きるだろうと放置することにしたのだが、ロザリーはそれが気に入らなかったらしく、噂は他のクラスにまで派生し、その結果上級生の耳に入ることになった。
「アネット・ルヴィエ侯爵令嬢、少しいいかしら?」
副会長のエリン・バルドー子爵令嬢から呼び出しを受けて、招かれたのは生徒会室だった。
「呼び出して悪いね。君の噂の原因の一端が俺にあるとエリン嬢から叱られたんだ。軽率な振る舞いをして迷惑を掛けた」
「エリン様、シアマ会長、お気遣いいただきありがとうございます。悪意のある噂ですが、特に困ってはおりませんので大丈夫です」
アネットの淡々とした返答に一瞬沈黙が下りた。
「困ってないのか?君はまだ婚約者がいないと聞いた。そのような噂があると差しさわりがあるんじゃないか?」
困惑したようなフェルナンの言葉にアネットは首を横に振った。
「噂はあくまでも噂です。それを鵜呑みにするような方なら論外ですわ」
どちらかと言えば婚約者を作りたくないアネットとしては歓迎すべきことである。それを正直に告げるつもりもないので、適当な理由を述べたがそれもわりと本音ではあった。
「アネット様が毅然としている理由が分かりましたわ」
どこか呆れたような声のエリンだが、最初よりも眼差しがどことなく柔らかい。噂の真偽が分からずに警戒されていたのかもしれなかった。
「ああ、見た目よりもずっとしっかりした性格みたいだな。ますます生徒会に欲しくなった」
結果としてフェルナンに気に入られてしまったアネットは自分の発言にもっと気を付けようと心に誓った。




