26 リボンが結ぶ微妙な縁
「おはようございます、セルジュ様」
「おはよう、クロエ」
翌朝少し早めに登校したアネットはクロエを教室に置いて、図書館へと向かう。昨日、マカロンをセルジュにも食べてもらいたいと、真剣な表情でラッピングに取り組むクロエを微笑ましく見守った。照れながらプレゼントを渡すクロエの可愛い姿を見たい気持ちもあったが、さすがにそれは野暮だろうと気を利かせたつもりだ。
(再来週にはテストだし、勉強しないとね)
授業も今のところ問題なく進められているが、入学してすぐに成績が落ちるようでは不要な憶測や攻撃のネタを与えてしまうことになる。せめて前期は首位を死守したいところだ。
苦手な理数科目の参考書籍の棚に目を走らせていると、誰かが入ってきた音がした。
アネットのことを快く思わない生徒だったら面倒だと、目についた本を数冊取ってカウンターに向かいかければ、正面にリシャールの姿があった。無人だと思ったのか驚いたような表情が年相応でどことなく安心する。図書館で声を立てるのが憚れたため、アネットは会釈だけしてリシャールの傍を通り過ぎようとした。
「っ、待て!」
「えっ、痛っ!」
何かに引っかかったのか、束ねた髪の毛がぐいっと引っ張られた。一瞬だけだったが反射的に思わず声を上げてしまう。
「あ、すまない。大丈夫か?」
焦ったようなリシャールの顔が近くにあり、むしろそちらのほうが衝撃的だ。特段好意を抱いていなくても整い過ぎた容姿はそれなりに心臓に悪い。
「いえ、大丈夫です。すみません、髪をどこかに引っ掛けてしまいましたか?」
片手で髪を押さえて見渡すが、該当するものが見当たらない。
「――うっ、本当にすまない。俺がつい掴んでしまった……」
(はぁ??女性の髪を、つい掴んだと???)
良い年齢の紳士がすることではない。現にリシャールは気まずそうな表情で俯いている。
「……二度としないでください」
それだけ言ってアネットは足早にその場を後にした。リシャールが何か言いかけていたが、無視である。どんなに顔が整っていようが、爵位が高かろうが突如異性の髪を引っ張るような輩と話すことなどない。
「話したいことがある。少し付き合ってくれないか?」
午前中の授業が終わり、リシャールから声を掛けられた時アネットは即お断りしたい気分だった。
(微妙に人目があるのが面倒…。これ断ったら令嬢たちから生意気だなんだと非難される系だわ)
仕方なく頷いたアネットをリシャールが連れてきたのは、カフェテリアの個室である。アネットの機嫌はますます低下する一方だ。内容は恐らく今朝の謝罪なのだろうが、どこか人目のないところでさっさと済ませてくれれば良いのに、一緒に食事をする仲だと思われるのは迷惑でしかない。
「今朝はすまなかった。親しい間柄でもない女性の髪に勝手に触れるだけでも失礼なのに、引っ張るなど人としてあるまじき行為だった。詫びの品は改めて届けるが、とりあえず好きなものを頼んでくれ」
「お昼はお姉様と頂くので結構です」
きっぱり断るとリシャールは困ったように眉尻を下げている。珍しい表情に少しだけ苛立ちが収まった。
「…そうか。アネット嬢、つかぬ事を聞くがそのリボンはどこで手に入れた?」
「貰い物です。随分前の物なのでどこで手に入るかは私にも分かりません」
欲しいのなら差し上げても一向に構わないが、公爵家ならいくらでも手に入るだろう。それよりもリシャールの問いかけに何となくある予感があった。
「昔、平民の子供にあげた物によく似ているんだ」
「そうですか。昔ベニエを分けてあげた少年から貰ったものです」
答えながらもアネットは先ほどの自分の予感が正しかったことを知る。
「やっぱり、そうか……」
リシャールは目を細めて満足そうに頷いた。
「お返ししましょうか?」
「いや、いい。それは菓子の礼としてあげたものだ」
「お話は以上でしょうか?それならば姉が待っているので失礼いたします」
「え、いや、ちょっと待て?!」
アネットは聞こえなかった振りをしてリシャールを置いてカフェテリアを抜け出した。
(うん、やっぱり面倒くさそうな案件だったな)
下手に公爵令息なんかと接点を持つべきではない。過去に一度偶然会ったことがあるからといって、深く関わる必要もないのだ。優良物件の高位貴族に関わるなど、アネットにとって百害あって一利なし。ただでさえ成績のことで注目されているのに、リシャールと親しいなどと勘違いされれば、令嬢たちからの嫉妬でどんな嫌がらせを受けるか分からない。
アネットは淑女としての節度を保ちつつ、クロエの元へと急ぐのだった。




