16 平民の妹(クロエ視点)
自室に戻ったクロエは落ち着かないまま机の前にいた。勉強しなくてはと思うのに、先ほどまでのアネットの言葉が頭の中をぐるぐると回っている。
ノックの音が聞こえ、反射的に背筋を伸ばして返事をすると家令のシリルが現れた。その手にはティーセットがあり、クロエが不思議に感じているとシリルはすぐに説明してくれた。
「ミリーに少し頼みごとをしたので、代わりに私が参りました」
その言葉に納得しながらも、少し引っ掛かるものがあった。ミリー以外にもメイドはいるのだから、多忙であるシリルがわざわざクロエの世話をする必要はない。
「アネット様のことでクロエ様がお困りだと聞いております」
お茶を淹れる優雅な仕草を見つめていると、唐突にシリルが口を開いた。多分その話をするためにクロエを訪れたのだと気づき、隙を与えないようお腹に力を入れる。
シリルはお父様の味方だから油断するな、とお母様から言われていた。時折厳しいけれど、不在がちなお父様とは違い自分の傍にいてくれるお母様の言うことを聞いていれば間違いない。
(…でもあの子のことは、間違っている気がする)
お母様から嘘を吐くように言われた時、素直に頷いたことをすぐに後悔した。自分を庇って怪我をしたのに、さらに罰を与えることになったのは自分がお母様の言葉を肯定したからだ。
「私は―」
困っている、それを誰から聞いたのか分からないが、お母様かお母様の味方からであることは間違いないだろう。ならばクロエの答えはそれを肯定するものでなければいけないが、言葉が思うように出てこない。
「クロエ様がアネット様のことをどう思っていても、構いませんよ。アネット様も今はクロエ様に懐いていらっしゃいますが、じきに諦めるでしょう」
思わぬ言葉にクロエは思わず聞き返した。
「諦める…?」
「ええ。どんなに好意を抱いていても、邪険にされればそのうち冷めます。アネット様はまだ幼いですし、他に興味が移ればクロエ様が煩わされることもなくなりますよ」
『お姉様、大好きです』
嫌な子だと聞かされていた。急にやってきて侯爵家の娘になるなんて図々しい平民の娘だと思って、冷たく突き放そうとしたのに、クロエを見るといつも嬉しそうな笑顔を浮かべる。
嫌いだと言えば落ち込んだ顔をするのに、顔を合わせれば屈託のない笑みを見せて話しかけてくる。
押し花の栞は綺麗で、クロエが本当に好きなミモザの栞を本当はとても欲しかったけど、平民の子から物をもらうなんて侯爵令嬢に相応しくないから我慢した。色とりどりの可愛いお菓子もクロエのためにアネットが用意したのだとミリーが教えてくれた。
いつも笑顔の少女が泣きながら必死で訴える声が蘇る。
『なかよくなりたい。さびしいの』
他の誰でもなくクロエを望み、慕ってくれる平民の妹。
「シリル、貴族は平民と仲良くしては駄目なのでしょう?」
自分の声が震えたのが分かった。答えを聞きたいような聞きたくないような気持ちで、心臓が口から飛び出しそうだ。
「駄目ではありませんよ。ただ互いの常識や文化が違うので難しいでしょうね」
難しい、それが答えなのだろう。
クロエだってアネットが今は平民でないことは分かっている。お父様の血を引く侯爵家のもう一人の娘なのだが、母親が平民であることは紛れもない事実だ。だが同じ爵位であっても両親の生まれによって身分の上下が変わる貴族社会においては、アネットとクロエの立ち位置は大きく異なる。
「ですが、互いに相手を理解しようと思うなら、自然に仲良くなることは珍しいことではありませんよ」
差し出されたティーカップに添えられていたのは、マカロンだった。
お母様に叩かれた痛みが蘇る。あの時は他にも使用人がたくさんいたから、あの程度で済んだのだ。
自室で叩かれる時はもっと容赦がなく酷い痛みを覚悟していたのに、代わりに叩かれたのはあの子だった。
痛かったはずなのに、真っ先にクロエを気に掛け心配してくれた。そしてもう叩かれることがないように、王子の婚約者であることを引き合いにだしてお母様を牽制してくれたのだ。
マカロンを口にすればお母様から怒られる。そう思うのに黄色い艶やかなお菓子に自然と手が伸びた。一口かじるとあの時と同じ優しい味がする。
「シリル、あの子は悪くないの」
アネットが怪我をした理由を話すクロエを、シリルはいつもより優しい眼差しで見つめていた。




