14 名誉の負傷
予想以上の衝撃にバランスを崩して思わず目の前にいたクロエにしがみつくと、びくりと華奢な身体が揺れた。
「お姉様、ごめんなさい。お怪我は―」
クロエの安否を確認しようとしたアネットだが、甲高い声に遮られた。
「勝手に部屋に入るなんて、本当に礼儀知らずだこと!さっさと出て行きなさい」
毅然とした顔つきのクロエは大丈夫なように見えるが、そうでないことをアネットは知っている。強く握りしめた両手と触れた部分から微かな震えが伝わってきたからだ。
クロエを背後に庇うように義母に向きなおると、僅かに怯んだような表情に変わる。
(ああ、切ったのね)
ズキズキと痛むこめかみに手を添えると、ぬるりとした感触があり指先が赤く染まった。扇子の角が当たったのが出血しやすい部分だったようで、痛みはあるが見た目ほど大した怪我ではないはずだ。
だけどクロエに苦痛を与えようとしていたことは明らかで、アネットは罵倒したい気持ちを抑えながらデルフィーヌに言った。
「申し訳ございません。侯爵家にあるまじき声が聞こえたので、思わず駆けつけてしまいました」
デルフィーヌの眉が跳ね上がり、怒りが再燃したのが分かる。だけどこのまま出て行けば義母はまたクロエを折檻するかもしれない。アネットは自分の怪我を利用して、デルフィーヌに釘を差すことにした。
「ところで、お義母様はまさかお姉様を傷付けようとしていたわけではありませんよね?お姉様は第二王子殿下の婚約者ですもの。将来の王子妃に傷が残るようなことがあれば、いくら身内と言っても厳しい処分が下されるのではありませんか?」
言葉に詰まったデルフィーヌは動揺を隠すように扇子を開きかけたが、こびりついた血に気が付いたらしい。汚らわしい物に触れたかのように床に打ち捨てると、そのまま部屋から出て行った。
「傷薬をお持ちします」
慌てた様子で中年メイドが去ると、部屋の中に沈黙が広がった。こっそり辺りを見渡して姿見を見つけたアネットは、傷の具合を確認する。出血は止まったようだがべったりと染まった額は、子供には少々刺激が強いかもしれないと思った。クロエはずっとアネットから顔を背けたままだったからだ。
「お見苦しいものをお見せしてすみません。部屋に戻りますので、メイドには手当不要とお伝えくださいますか?」
「……待ちなさい」
引き結んだ口元から返答が期待できないことを察して、身を翻したアネットだったが、その背中に小さな声が掛かった。
「どうして私を庇ったの?」
「お姉様が大好きだからです」
大好きな人が傷つくところなんて見たくない。今度こそ守りたいという想いから咄嗟に取った行動だった。
「そんなの嘘!私は、貴女なんて嫌いよ!」
怪我よりも心がずきりと痛んだ。瞳の奥が熱くなるが、泣いても見苦しいだけだとぐっと堪える。
「失礼いたします」
それ以上留まることができずにアネットは自分の部屋へと駆け出した。
「アネット様!?何てこと…」
部屋に戻るとジョゼが泣きそうな顔でアネットの手当てをしてくれた。
「恐らく傷痕は残らないかと思いますが…」
念のため医者を呼ぼうとするジョゼを止めて、お茶の支度を頼んだ。大げさにするのは好ましくないと判断してのことだったが――。
「クロエ様のお部屋に押しかけて暴言を吐いたというのは本当ですか?」
ジョゼが戻ってくるより先にシリルがやって来た。
淡々とした口調のシリルからは何を考えているのか読めない。ただ一方的にアネットを疑っているのではない、そんな気がした。
「誰から聞いた話なの?」
肯定も否定もせずに質問で返すと、あっさりと情報源を明かしてくれた。
「奥様です。それからミリーとクロエ様も肯定されました」
ミリーというのは恐らくあの場にいたメイドのことだろう。
(恐らく脅されたんだろうな)
傷の手当てをしてくれようとしたのは、身を挺してクロエを守ったからだろう。デルフィーヌから必死に庇おうとした姿からクロエの味方だと推測できた。だが女主人に逆らうことが出来ず、口裏を合わせるように強要されたようだ。
(私に怪我をさせたことについては、何て言い訳したのかしらね?)
アネットの疑問を読み取ったかのようにシリルが補足する。
「勝手に足を滑らせて机の角で頭を打ったのに、奥様のせいにしようとしたそうですね」
なかなか無茶のある話だが、アネットの味方をしてくれる目撃者はいない。否定したところで平行線だが、言い争って勝てる見込みもなさそうだ。
「お姉様には何もしていないわ。怪我はちょっとした事故よ」
「それでよろしいのですか?」
すっと目を細めたシリルの雰囲気が冷たさを帯びた。アネットの言葉は嘘ではないが、真実でもないことを見抜いているかのようだ。この件でデルフィーヌと対立すれば、間に挟まれたクロエに嫌なことを思い出させることになる。
(それにこれ以上お姉様に嫌われたくないわ)
「構わないわ」
きっぱりと告げるアネットにシリルはそれ以上何も言わなかった。




