13 癒しがなくてやる気がでない
(……お姉様に嫌われた?)
衝撃が収まるとじわじわと実感が湧いてくる。
これまで不可解な生き物を見るような視線や無関心な態度を取られることはあっても、あんな風に感情的に拒絶されることはなかった。
嫌な想像を振り払うように、慌てて別の可能性を考えてみる。単純に機嫌が悪かっただけかもしれない、不用意な発言をしてしまったのかもしれない。
図書館での会話を振り返っても、クロエの気に障るような言動に心当たりがない。唯一気になるのは本を見た時のクロエの反応ぐらいだ。
探していた本をアネットが手にしていたことが気に入らなかったのだろうか。平民の娘が触った本に触れるのも嫌だったのか。
考えれば考えるほど、クロエが嫌悪しているのはアネット自身だと思えてきて悲しくなる。
「お姉様と仲良くなりたいと思うのは、我儘なのかな…」
「推し」である以前に姉妹だから距離を縮めたいと望んだのは分不相応だったのかもしれない。たとえクロエが自分のことを嫌っていても守りたいと思う気持ちは変わらないが、迷惑を掛けたくはなかった。
不快な思いをさせてしまったならせめて謝りたいけれど、話しかけないでと言われた手前、クロエは嫌がるかもしれない。
悩んでも答えは出ず落ち込んだままダイニングに向かうと、クロエが一向に現れない。
「お義母様、お姉様はどうなさったのですか?」
普段は無視されるが、父の前では最低限の言葉は返してくれる。デルフィーヌは眉をひそめながらも、簡潔に答えた。
「気分が悪いらしいわ。可哀そうにね」
含みのある言葉と視線は雄弁にアネットのせいだと非難している。普段は聞き流せるのに、心臓をぎゅっとわしづかみにされたように苦しい。それを悟られないように平然を装いながら、アネットは味気ない食事を無理やり押しこんだ。
その日からクロエは食事に姿を現さなくなった。体調不良や多忙などを理由に部屋で食事を摂るようになったのだ。三人で摂る食事は重苦しい雰囲気で、時折義母が口を開けば嫌味や小言をしか言わない。
クロエの存在がどれだけ貴重だったか改めて感じた。美しい外見と凛とした佇まいは澄んだ早朝の空気を思い起こさせたし、守るべき対象が傍にいれば強くあろうと堂々とした態度を保つことが出来た。
カチャ、とスプーンが皿に当たる音がしてアネットは我に返った。食器の音を立ててしまうのはマナー違反だ。
案の定デルフィーヌが即座に反応する。
「やっぱりまだまだマナーが身についていないようね。恥ずかしいこと」
勝ち誇ったような表情が気に食わないが、自分に非があるので素直に頭を下げる。
「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございません」
「いい加減弁えて頂戴。旦那様、いつまで甘やかすおつもりですか?この娘がいるからクロエが部屋に閉じこもってしまっているのですよ」
薄々感じていたことだが、はっきりと言葉にされると辛いものがある。夕食には、翌日には現れるかもしれないと期待して、どんなに居心地が悪くてもダイニングで食事を摂っていた。
「慣れさせろ。社交界に出れば気に入らないからと言って相手を選んで食事を摂ることなど出来ない。アネット、次同じようなことがあれば来なくていい」
カミーユはそれだけ告げて食事を再開する。デルフィーヌは納得がいかないようだったが、アネットへの指示については満足したようで、それ以上何も言わなかった。
「アネット様、最近間違いが多いですね。もっと勉学に身を入れて頂かなければ困ります」
家庭教師から指摘されて、アネットはますます落ち込んだ。何をやっても上手くいかず、負のサイクルに囚われているのは分かっていても、浮上できない。そんなアネットの様子を見た家庭教師は励ますように言葉を付け加えた。
「頑張っていらっしゃるのは分かりますよ。短期間でクロエ様と同じぐらいの知識を身につけたのですから。ですがもっと―」
「今、何と仰いましたか?」
驚きのあまり途中で遮るように口を挟んでしまったが、家庭教師は気分を害した様子もなく教えてくれた。
「アネット様の学習内容はクロエ様に追いついています。これまで教育を受けていないのに、元々の素養もあるのでしょうが、宿題なども熱心に取り組んでおられた結果でしょうね。――ああ、夫人やクロエ様には内密に」
つい、口が滑ってしまったらしい。家庭教師の口の軽さが心配になったが、思ったよりも早く目標を達成していたようだ。
(でも今となってはお姉様と一緒に勉強なんて、夢のまた夢だわ)
アネットは自嘲的な笑みを浮かべた。
気分転換に散歩でもしようと部屋を出ると、バタバタと廊下を走る音が聞こえた。どんなに急いでいても屋内で走るような真似をする使用人などいないはずだ。訝しんだアネットの視線の先に見覚えのある中年のメイドの姿があった。
(あれはお姉様付のメイドだったはず…)
不穏な空気を感じたアネットはそのままメイドの後を追いかけることにした。
侍女が入っていったのはクロエの部屋だった。場所だけは知っていたが、部屋に入ったことはもちろん、近づいたこともない。よほど慌てていたのか僅かに開きっぱなしになっている扉からは物が床に落ちる鈍い音がした。
そっと様子を窺うと、怒りの形相を浮かべたデルフィーヌとうなだれたクロエ、そして先ほどのメイドは必死に頭を下げながら嘆願している。
「邪魔よ!娘の躾に口を挟まないでちょうだい!」
「滅相もございません!ただクロエお嬢様は本当に努力しておいでです。睡眠時間を削ってまで、勉強に励んでおられます。ですから―」
「結果が伴わなければ意味がないわ!あんな平民の小娘に負けるなんて、怠けている証拠でしょう」
憎々し気な表情を浮かべたデルフィーヌの手が大きく振り上げられる。その手にはいつかと同じように扇子があった。
(お姉様!!!)
クロエの悲しそうな顔がよぎり、考える間もなく駆け出していた。大きく目を見開いたクロエの顔がすぐ近くに見えた瞬間、頭に衝撃が走った。




