10 転生令嬢の怒りと決意
「アネット様、申し訳ございません」
謝罪をする料理長に何と答えたか覚えていない。ただ早く一人にならなければならないということだけしか考えられず、足早に部屋へと向かう。
冷静になろうとすればするほど、全身が熱く心臓が痛いほどに脈打っている。ようやくのことで部屋に辿り着き、クッションを掴むとアネットはクローゼットの中に閉じこもった。
そしてクッションで口元を強く押さえると、力の限り絶叫した。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなああああ!!!」
怒り過ぎて耳鳴りがして、視界が歪む。
(毒親が!!!!)
平民の食べ物だと馬鹿にされたこと、皆で作ったマカロンを台無しにされたことに苛立ちはあったが、そんなことクロエがされたことに比べれば何でもなかった。
毒でもないのに、口にしかけていたわけでもないのに、ただ手にしていただけで、扇子で容赦なく打擲された滑らかな陶器のような手は、たちまち赤く腫れあがった。
地面に落ちたマカロンをクロエが悲しそうに見つめていたのをアネットははっきりと目撃した。無意識に左手を叩かれた右手に添えていたが、痛みに泣くこともなく表情をなくしたクロエを抱きしめてやりたかった。
6歳の子供にあんな表情をさせてはならない。
それなのに何もできずにぼんやりとその光景を見ていた自分にも腹が立つ。
感情を表に出すことは淑女として好ましくないとしても、クロエのそれは異常だ。
躊躇いのないデルフィーヌの行動とクロエの態度から常習的に躾と称して扇子で打たれているのだとアネットは確信した。
悪さをして拳骨を落とされる子供など以前暮らしていた場所ではよくあることだったが、それ自体悪いことだとアネットは思わない。体罰も時と場合によっては絶対悪ではないが、クロエへのそれは明らかに虐待だと言える。
父は子供に興味がなく、健やかに成長して婚姻に支障がなければいいのだろう。だが幼い子供を放置している状況はやはり育児放棄と同じことだ。
そんな環境で育てばいずれ心を壊すか、義母のように歪んだ性格になってしまう。
そう考えた時、アネットの頭には閃きが走る。それは欠けたピースがぴたりとはまったような感覚だった。
「悪役令嬢…?」
ここが過去でもなく見知らぬ世界であることは大陸地図を見て分かったことだ。かつて自分がいた世界ではありえない地形と覚えのない地名。
絶世の美女になることが予想されるクロエは王子殿下の婚約者である。異世界転生、王子の婚約者とくれば、欠かせないのは悪役令嬢だろう。
(……事実は小説より奇なりというけど、そんな物語みたいなことが?…、いや物語の中に転生してしまったと考える方が自然?)
性格の悪さは育った環境のせいだけでなく、元々そういう性質を持った人もいるだろう。だがこのままクロエの生活環境が改善されれば、間違いなく性格の悪い悪役令嬢になる。アネットはそんな確信を抱いた。
物語の悪役令嬢だって、語られていないだけで悲惨な子供時代があったのかもしれない。だからといって悪辣な所業が正当化されるわけではないが。
急速に頭が冷えていくとともに思考がクリアになっていく。ここが物語の世界であってもなくても大した問題ではない。大切なのはクロエの心であり、幸せな未来だ。
「お姉様は私が守ってみせる」
悪役令嬢なんかにさせないし、誰にも傷付けさせたりしない。目標が定まってからアネットの行動は早かった。
ジョゼが部屋に来るなり、至急シリルを部屋に呼ぶように頼んだ。
「お呼びでしょうか、アネット様」
「ええ、お父様が次に邸で食事を摂るのはいつかしら?」
アネットの様子に違和感を覚えたのか、眉をひそめたのは一瞬で有能な家令はすぐさま表情を消して必要な情報を告げる。
「5日後でございます」
5日もあれば十分だ。ケチのつけようがないぐらい、徹底的に完璧なテーブルマナーを身に付けて見せよう。
「その時は私も参加するわ」
質問でもなくねだるわけでもなく、確固たる口調で答えるアネットにシリルは恭しく一礼した。




