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1 前世の記憶より熱々のベニエ

最初は変な夢だと思っていた。

だけどそれが前世の記憶だと分かってきたのは成長して段々と思考がクリアになってきた頃だ。


(生まれ変わり、しかも異世界に転生するなんて本当にあるのね)

ぼんやりと天井の染みを見つめながら、ベッドの上でかつての自分を回想する。

悪い人生ではなかったように思う。普通の家庭に生まれて普通に大学を出て普通に働いて不幸な事故で死んだ。

後悔するような深い執着も叶えたい夢もない。


前世の記憶を持って生まれたことに何か意味があるのかと考えていると、不意に部屋のドアが開いた。

「アネット?起きているなら朝市に行くから準備して」

母ナタリーに声を掛けられてアネットは考えを中断してベッドから飛び起きる。家で母の帰りを待つよりも、賑やかな朝市に付いて行くほうが面白い。


(それに焼きたてのパンか熱々のパイが食べられるかもしれないし)

前世の記憶では冷めた弁当や冷凍食品をよく口にしていたが、出来立ての食べ物や手作りの食事のほうが断然美味しい。過去の記憶のお陰で、日々の食事に感謝し美味しく食べることが出来る。

(意味があろうとなかろうとあって困るものではないよね)

アネットはそう思いながら着替えを終えて、母の元へと急いだ。


片手に買い物カゴ、片手は母に繋がれて喧騒溢れる広場から少し離れた場所に母のお気に入りの端切れ店がある。布や糸の種類が多く、質も良いのに安価で人気のお店だ。

その途中で美味しそうな甘い匂いが漂ってきて、そちらに視線が釘付けになってしまう。揚げた生地の中にジャムが入ったベニエに思わずつばを飲み込むと、頭上から軽い笑い声が聞こえた。

「今日の朝食はベニエにしましょう」


26年間別の人生を歩んだ記憶があっても、精神は身体に引きずられるようだ。4歳のアネットにとって現在目下の興味関心は朝食のことだった。

反対側のベンチに腰掛けて待っていると、熱々のベニエとミルクをトレイに載せて母が戻ってきた。


「売り切れる前に買っておきたい物があるの。ご飯を食べながら一人で待てる?」

少し不安そうな表情で尋ねる母にアネットは迷わず頷いた。普通の幼児であれば心細さでごねたかもしれないが、アネットは平気だ。それに昼と夜には食堂で働きながら、空いた時間で針子の内職をしている母にとって良質で安価な生地を手に入れることは収入にも直結することを理解している。

母はアネットに前世の記憶があることを知らないが、年齢よりも大人びたところがあることは理解している。母一人子一人である環境が早熟させたことをナタリーは気に病んでいたが、助かると思うことも事実だろう。


母がいなくなってアネットは目の前のベニエを手に取った。かぶりつくのもいいが、中のジャムで火傷をしてしまうかもしれない。包みの上からも温かさが伝わってきて、慎重に半分に割るととろりとした苺のジャムが湯気を立てて現れる。


(これ絶対美味しいやつ!)

にんまりしながら頬張ろうとしたとき、言い争うような声が聞こえた。

「だから、これは使えないと言っているだろう!」


ベニエを揚げていた屋台の主人から怒鳴られているのは、アネットより少し年上の少年だ。少年は何かを言いかけたが、自分の後ろに出来た列に気づいて悔しそうに順番を譲った。その場を去りかける前にちらりと屋台に視線を向けたのが、何だか可笑しくてアネットはつい声を立てて笑うと、不貞腐れたような少年と目が合った。


(だって、そんなに未練がましい顔をしているんだもの)

「ねえ、お兄ちゃん」

恥ずかしかったのか顔を赤らめて回れ右をする少年にアネットは声を掛ける。一方少年は声を掛けられると思わなかったのか、きょとんとした表情でアネットを見つめた。


「はい、半分あげる」

「……いい。それは君のだろう」

片方のベニエを差し出すも少年から断られてしまう。年下の少女から施しを受けるのは気に入らないのかもしれない。


「一緒に食べよう。熱々なの、早く早く」

出来立てのものはすぐに食べるに限る。こうしている間にもどんどん美味しいピークは過ぎていくのだ。急かすように告げると少年は逡巡しながらも、アネットの隣に腰を下ろした。

それを確認したアネットは待ちきれずにベニエにかぶりついた。


「んー、美味しい、熱々とろとろー」

幸せな甘さが口いっぱいに広がり、ミルクで口の中をリセットしてもう一口。火傷しないように注意しながら、でも美味しい状態で食べきれるように交互に急がしく口を動かす。


「美味いな」

気づけば少年ももぐもぐと口を動かしている。美味しい物は誰かと食べるとさらに美味しい。それは前世では気づかなかったことだ。

「美味しいね」


あとは無言でベニエを二人で頬張っていたが、気まずいとは思わなかった。何しろ精神年齢は大人でも身体は子供であり、一緒にいる相手も子供なのだ。気を遣う必要もなく食べることに集中しても咎められることはない。

アネットが食べ終わると少年は既に食べ終えてアネットを見ていた。


「ちょっと待ってて」

戻ってきた少年はアネットの口や手を濡らしたハンカチで綺麗に拭いてくれた。多分口の周りにジャムや砂糖がたっぷりついていたのだろう。

(気を付けていたつもりだけど、口が小さいから仕方ないことよね……多分)


「あとこれあげる」

そう言うと少年は自分の髪を束ねていたクリーム色のリボンをアネットの手首に巻き付けた。

「本当は結んであげられたらいいんだけど、やった事がなくて……」

恥ずかしそうに言う少年だが、アネットはどうしたものかと内心頭を抱えた。


(この子多分貴族よね。お忍びか勝手に抜け出したのだろうけど…)

手元のリボンは光沢と艶があり、おそらく絹で出来ているようだ。平民ではまず購入できない品を持っていればあらぬ疑いを招き、下手をすれば盗品だと思われるかもしれない。

だからアネットは少年に言った。


「いらない」

「え…?」

驚いたような顔はすぐに傷ついたような表情に変わる。罪悪感が芽生えるが発言を撤回するつもりはなかった。

「知らない人から物をもらったらいけないって、お母さんに言われているの」

「ああ…なるほど」

納得したように少年は頷いてリボンに手を伸ばしたが、その手が触れる前に少年の動きが止まった。


「やばい、見つかったか」

そう言うなり少年は身を翻して駆け出していく。その後を数名の屈強な男性が追いかけていくのをアネットは呆然としながら見つめるしかなかった。


(どうすんのよ、これ!)

手首から外したリボンをアネットは仕方なくポケットにしまった。母が見れば心配するに決まっているからだ。その後戻ってきた母に連れられて生鮮食料品などを購入するため幾つかの店に立ち寄ったが、少年に遭遇することがないままアネットは朝市をあとにしたのだった。

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