俺のものになれよ
わたし、1番、好きな映画が『タイタニック』なの。
一瞬で、燃え上がる恋、そして一瞬で、儚く終わる恋。
それが、いいの。
ラブホテルのベッドの上で、その女は、デニール数の低い黒色のストッキングを華奢なふくらはぎに滑らせながら言った。緩いパーマのかかった長い黒髪を片側に寄せて、ストッキングを履く姿が、色っぽかった。
「彼氏が心配するから、家に帰らなきゃ」
彼女はベッドから下りて、薄手のコートをはおった。
ボクサーパンツ1枚で、ペットボトルの水を飲んでいた俺は、咽る。
(彼氏がいたのかよ! しかも、一緒に住んでいるのかよ?)
俺は心の中でツッコミを入れていた。
◇ ◇ ◇
昨晩、六本木のクラブで、俺が女に声を掛けた。
バーカウンターの近くで、女は1人立ってグラスを手に、綺麗な色のカクテルを飲んでいた。
2、3年上で、30歳くらいだろうかと、俺は見当をつけた。拒絶されなさそうな雰囲気と大人の色香に、惹かれた。
俺はビールを買ってグラスを手に、女に近付いた。
女のグラスにグラスを打ち合わせた。
「何を飲んでいるんですか?」
「なんだったっけな。わからない」
女は声を漏らして笑った。
女は話しかけられたことに喜んでいるようだった。
俺達はお互いの仕事について、それから好きなミュージシャンやクラブ音楽の話をした。
女は香織と名乗った。アプリを開発する会社を経営していた。
俺が酒を奢ると、香織さんは素直に喜び、礼を言った。
ホテルに誘うと、彼女は笑顔で頷いた。
◇ ◇ ◇
ベッドの上で、香織さんは白魚のような裸体をのたうたせていた。
俺の求めに全て応えてくれて、思いっ切り感じていた。
大人の女ってすごいと、俺は思った。
でも、男がいるなら、これっきりか。
俺は落胆を覚られないように「家まで、送るよ」と明るく言う。
一応と思って、俺は彼女と連絡先を交換した。
ホテル街を、俺は香織さんと手を繋いで歩いた。
日は明けきれていない。
ゴミ集積所に、2羽のカラスが飛び跳ねている。
駅のホームで、俺達は始発を待った。
香織さんはほっそりとした体付きのせいで、薄手のコートでは寒そうだ。
俺は彼女の肩を抱き寄せて、体を両腕で包み込んだ。
◇ ◇ ◇
駅舎を出たところで、ガードレールに尻をもたれかける男と目が合った。
俺は香織さんの手を離して、彼女から距離を取った。
男が大股で近付いてきて、香織さんの手を引き寄せた。
男は上下セットのトレーナーに、ジャンパーをはおる。クロックスを履く。背が高い。襟足の長い髪にスパイラルパーマがかかる。見るからに若い男だ。
「誰だよ? あの男」
駅前で、男は香織さんを責め立てる。
まるで帰りが遅いと主人に怒る大型犬のようだ。
香織さんは困った顔で男をなだめている。
(ご主人が浮気して男と朝帰り。それをまんま責めて、男のプライドはないのかよ)
俺は遠目から嘲笑する。
◇ ◇ ◇
連絡が来ないと思っていたが、香織さんから毎日、メールが送られてきた。
『○○の新曲、いいよね』
『○○っていうバンド、おすすめだよ』
そんな屈託のない内容に、俺はつい返信をしてしまう。
修羅場は、治まったのかよ?
あのあと、彼氏とどうなったんだよ?
そう聞きたいところだが、俺は調子を合わせた内容のメールを返した。
メールをやりとりして、香織さんが俺より11歳上の38歳で、10人程の社員を抱える女社長だと知った。
◇ ◇ ◇
香織さんから食事に誘われた。
仕事終わりに、俺達は駅で待ち合わせた。
香織さんが無農薬野菜を使った創作料理の店を予約してくれていた。
香織さんの服装はパステルカラーのふんわりとしたデザインで、男受けを狙ったもの。
彼女の年齢や雰囲気に合っていない。
俺達はレストランの個室に案内された。
香織さんは、起業して10年になる、これまでの失敗や成功の体験談を面白おかしく話す。
同じITにかかわる業界の、先輩である彼女の話はためになった。俺は夢中で聞いた。
音楽の趣味も合い、話が尽きなかった。
香織さんはよく笑う。綺麗だと褒めると無邪気に喜ぶ。
食事を終えてレストランを出て、俺達はバーに入った。
窓際の丸テーブルの席につく。
俺が彼氏とどうなのかと聞くと、香織さんは顔を曇らせた。
香織さんは27歳の恋人とレスだと話す。恋人が奨学金を返しているから家賃や生活費を負担してくれなくて、歳も歳だから結婚したいが難しそうだと溢す。
彼氏の愚痴を聞かせて、新しい男に乗り換えるパターンか。
俺は内心、溜め息を吐く。
女性誌に載っていそうな使い古されたテクニックだ。
俺は適当に慰めて、「応援している」と告げた。
◇ ◇ ◇
俺は会社の同期に誘われて合コンに参加した。
オーダーメイドのスーツできめて、俺は会場である夜景の見えるレストランに赴いた。
女達は4人とも年下で、1人、学生が混じっていた。
全員、ピンク、リボン、ハートといった柄なり装飾なりが付く服装だった。気合いが入っているが、誰も似たり寄ったりだ。
俺は彼女達の表情や目付きに、ナィーブな彼女らの自意識を感じてしまい、可愛いと言わなきゃいけない気になって、「可愛い」と褒める。彼女達は笑顔で感じがいいが、話題を提供しないといけないという頭が俺は常に働く。
香織さんだと、そんな必要がない。何を話そうと考える暇がなく会話が弾む。
香織さん相手だと、自然と褒めたくなる。
頻繁に香織さんと比べていることに気付いて、俺は頭から彼女を追い払った。
『聞かれて、桜井のメールアドレスを教えた。所詮、顔かよ』
解散した後、幹事の男からやっかみのメールが届いた。
俺は4人中3人の女から、ご飯に誘ってほしいという内容のメールをもらった。
◇ ◇ ◇
1日3~4回のペースで、ちょっと笑えるメールが香織さんから届く。
そのやりとりが、俺は楽しくなっていた。
香織さんからのデートの誘いを、待つようにもなっていた。
俺は香織さんと海に行って灯台に上ったり、また別の日に浴衣を着て花火を見たりした。
香織さんの話を聞くと、仕事での彼女の有能ぶりがわかる。
俺は便利な無料のPCソフトや、人脈を広げるコツなどを教わった。
彼女の話は面白く、端的でわかりやすい。
俺が話すことも、少ないラリーでより正確に、より深くわかってもらえる。
香織さんと朝まで過ごす夜が増えた。
不思議と、体を重ねる毎に、俺の香織さんへの情欲は募っていった。
ベッドの上で、香織さんの乱れる姿も、嬌声も、俺はもっともっと欲しくなった。
毎回、俺達は互いの欲する望みが呼応していき、2人ともに頂きにのぼり詰めて、果てた。
相性が良いとはこういうことだと、俺は驚いていた。
俺と香織さんは夜景を見下ろす公園のベンチで、唇を重ねて、舌を絡ませて合っていた。
思いが溢れる勢いで、俺は胸元に彼女を掻き抱いた。
「彼氏と別れて、俺と付き合ってほしい」
「本気でないでしょう?」
香織さんは俺を腕で押して、体を離し、悲しそうに言った。
俺は本気だとすぐに言い返せなかった。
エリートで見た目の良い自分は女に不自由しない、結婚願望の強い2股の年上女と真剣に付き合う気があるのだろうか。そんな考えが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
俺と会っている間、香織さんの携帯にしょっちゅう恋人から着信が入る。
俺には別れたいというくせに、電話がかかると香織さんは嬉しそうだ。
電話に出た彼女は彼氏をなだめて、「好き」と告げている。
本心はどうなんだよ?
別れたいというのは、俺と両天秤にかける言い訳か?
内心、苛立っていたが、俺は放っていた。
駅前で、浮気した彼女の朝帰りを待つ、あの男と俺は違う。
◇ ◇ ◇
香織さんに、仕事関連のパーティーに誘われた。
香織さんはチャーターしたリムジンで、総勢10名の社員とともに、会場のホテルに乗り付けた。
料理が並んだ広間に、参加者達が賑わう。開放された扉から屋外のプール場に出られる。
フォーマルな服装の参加者達が名刺を交換して、めいめい会話をしている。
香織さんは背中が大胆にあいた黒いドレスを着る。
彼女は男達に「美しい」と褒めそやされて、ご機嫌だ。
香織さんの男がタキシード姿で現れた。
さも自分の女だといわんばかりに香織さんにぴたりと寄り添って、男はエスコートをする。
香織さんは俺に見せるのと同じ笑顔で、恋人の男に笑いかけている。
奴に褒められて、髪を撫でられて、彼女は嬉しそうに笑う。
男が料理を取りに香織さんから離れたのを見て、俺は彼女に近付いて行って腕を掴んだ。
彼女の腕を引っ張って広間を出て、ホテルのフロントロビーを突っ切り、玄関を出た。
ホテルの裏手まで連れて行く。
彼女の顎を下から掴んで、俺は彼女の唇に食み付いた。
――― どういうつもりだよ?
――- 誰でもいいのかよ!
――― 俺より、あいつの方がいいのかよ?
滾る苛立ちを、俺は唇と歯と舌で、香織さんにぶつける。
香織さんは口を開けて俺の思いを受け入れる。
腰を抱くと、柔な腰が俺の腕にもたれかかる。
香織さんは面白がるような顔つきで、俺の顔を見上げる。
嫉妬心を煽られているのだと気付いて、俺はかっとなる。
「彼氏のどこが好きなんだよ?」
「見た目が綺麗で、若くて、素直なところ。教養、知性、財力は持っているからいらないもの」
俺は小学生並みの答えに脱力する。
後半言い足した、かっこいいところが好きなのにと、俺は思う。
探しに来た男が、香織さんを抱き寄せた。
俺に見せ付けるように、男は香織さんの唇を奪う。
香織さんは唇を開いて、男を受け入れている。
ただまとわりつく犬みたいな男なんか、どうして――――
俺はくらくらする程の嫉妬を覚える。
あの男にも、抱かせているのか?
あの艶めかしい声で啼くのか?
細い滑らかな腰を、あの男の上で蠢かせるのか?
男が香織さんを抱え込んで、俺から隠して、俺を睨み付ける。
「彼女に近寄るな」
香織さんを奪い返したかったが、俺はそうしなかった。
彼女の意志で俺を選んでほしかったから。
男に肩を抱かれて去る香織さんを、俺は見送った。
◇ ◇ ◇
香織さんを忘れよう。
俺は仕事に没頭した。
仕事関係の人脈が広がって、社内評価が上がるのを実感する。
香織さんのお陰なのは、認めざるを得なかった。
◇ ◇ ◇
会社を出ると、植え込みの近くに、香織さんが立っていた。
「彼氏と別れるから、やり直してほしい」
香織さんはばつが悪そうに自分の靴先に視線を落としていた。
俺は近くの喫茶店に彼女を連れて行った。
壁際のソファ席に、香織さんを座らせる。
「浮気性の父に母と私は苦しめられたの。男は皆、浮気するものでしょう? モテるだろうから、あなたが本気で想ってくれるはずがないと諦めていたの」
珈琲カップの持ち手を掴んで、香織さんは声を詰まらせながら言った。
彼女は不安気な少女のような目をしている。
一瞬で燃え上がる恋、そして一瞬で儚く終わる恋。
それがいいの。
出会った日の帰り際に言った香織さんの言葉が蘇る。
男の愛を信じられないから、一瞬の恋を夢想するのか。
嫉妬を煽って男の気をしきりに引くのか。
若くて単純な男から、好き好き、言われて自信を得ようとするのだろう。
俺は香織さんのことがわかった気がした。
「愛する方が強いんだよ。いつか、自分の望む愛か、わからないものを待つよりも」
俺は彼女の目を覗き込んだ。「俺を信じろ。な?」
◇ ◇ ◇
「彼氏に引っ越す費用がないから暮らし続けるしかないの」
香織さんはそう言って、同棲を解消しない。
俺は不信を抱きながらだが、待つことにした。
香織さんから、彼氏が出張に行っている間に旅行に行かないかと誘われた。
俺はクルージングの旅を計画した。
俺達は、俺の部屋で荷造りをしていた。
聞いてはいけないマナー違反だとわかっていた。男と住みながら、俺と旅行に行く前日だったからだろうか。キャリーバッグを閉めるタイミングで、俺は聞いた。
「俺とのときみたいに、初対面の男と寝ることがよくあるの?」
「あなただから、たとえ一夜限りになっても後悔しないと思えたのよ」
香織さんは心外だと怒る。
一瞬で燃え上がる恋、そして一瞬で儚く終わる恋、それがいいの。
彼女の夢見ている恋だったというのか。
俺だから、一夜でもいいと思えたのか?
それをまんま受け入れられるほど、俺は初心でない。
◇ ◇ ◇
俺は香織さんとレンタカーで波止場まで行った。車を船に載せた。
俺達は昨晩の喧嘩を引き摺っていた。
香織さんを船室から甲板に誘って、船頭に連れて行った。
俺は背後に立って、香織さんの両腕を上げさせた。そうして映画「タイタニック」に出てくるシーンを再現した。
彼女は感嘆の声を上げる。
目の前に大海原が広がる。
2人の未来がこの景色のごとく広がっている、俺はそう思う。
夕陽が空を赤々と染めている。
その輝きが、まるで自分の抱く強い慕情のように思えた。
でも、この女は、明日にも俺の腕から擦り抜けていなくなる。
そうなるかもしれないという不安が、俺のその熱情をかげらす。
前方から突風に吹かれた。
今日だけは俺のもの。
あの映画と同じく明日には、さよなら。
俺は映画になぞらえて、妙な感傷を自ら引き寄せる。
切なくて、恋しくて、堪らなくなった。
「俺のものに、なれよ」
俺は彼女の背中を引き寄せて抱き締める。
香織さんは振り返って、俺の顎に手を添えて、口付けをくれた。
今日だけ。
明日には、冷たい氷海の底に沈む。
そう、映画に重ねて想ってみたら、俺の胸に宿る彼女への愛が燃えた。
◇ ◇ ◇
その晩、俺は香織さんの手を引いて、レンタカーに潜り込んだ。
俺達は激しく求め合った。タイタニックの主役2人の魂が乗り移ったかのようだった。
この一晩が、永遠で、そして、一瞬だとも思った。
俺は彼女の裸に強い思いをぶつける。
応えるように、香織さんは体を震わせて、もだえさせて、縋りついてくる。
振り回されたとていい。
この女の悲しみや寂しさを受け止めてやる。
香織さんを胸に抱き、俺は眠りに就く。
有能な香織さんの持つ情熱に呑み込まれるのが心地いい。
俺は氷塊を抱いて、海の底に沈む幸福な夢を見た。
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