第八話
彼は、紙袋を片手にご機嫌に階段を上がっていく。
僕は、三角巾と割烹着を脱いで、彼を追いかけた。
階段下で草履を脱いでから二階へ上がると、廊下があり、二つ部屋が並んでいる。奥側は障子が閉ざされたままで、彼は障子が開いている手前の部屋にいた。
中を覗くと後ろ姿が見え、お茶を入れているようだ。部屋の隅には、今朝僕が寝ていた布団が畳まれていた。
朝は余裕がなく気がつかなかったが、どうやらその部屋が彼の自室であるようだった。
入り口の正面に窓があり、その傍には机がある。右手側をみると、大きな本棚があり、壁一面にすごい量の本が納められていた。
息を吸うと、畳の良い香りが鼻をくすぐるのと同時に、紙とインクの香りがして妙に心地良かった。
「おや、サンドウイチじゃないか。あいつにしては気が利いているな。」
紙袋をあけ、彼は上機嫌に言った。
「こちらへおいで。」
そう言われ、ちゃぶ台の前へ正座する。
すると、膝に一冊の雑誌が触った。手に取り見ると、黒い表紙におどろおどろしい女性の絵が描かれており、如何にも怪しい雑誌だった。
『妖怪デモクラシー』
デカデカと書いてある言葉に首を傾げた。
「なんですか?これ…」
彼はちゃぶ台にお茶を置きながら言った。
「あぁ、それね。新たに三日月堂から出版され始めたオカルト誌だよ。『妖怪』って単語に、今流行りの言葉をとってつけただけの低俗な読み物だ。ちなみに、先程来たのは、担当編集者の左近時くん。」
「えっ!もしかして、貴方は作家さんなんですか?」
「…まぁ、それなりにね。その雑誌では、小遣い稼ぎ程度に筆をとっているよ。」
そう言って、彼は一口お茶を啜った。
ただの趣味の悪い、骨董品店の店主じゃないのか。
僕がそう思うと、彼は片眉を釣り上げる。
「今、失礼なことを思わなかったかい?」
そう言われて、僕は全力で首を振り、慌てて話題を変えた。
「あ!三日月堂といえば、作家の神宮寺皐月先生とはお知り合いですか!?」
「…何故だい?」
「ファンなんです!僕を、育ててくれたじいちゃんがもともと愛読してたんですけど、僕もすっかりハマってしまって!」
「ふぅん。」
彼は、つまらなそうに訊いてきた。
「あの作品は全部、御涙頂戴物語だろう。ご都合主義ですべてハッピーエンド。そんな短絡的な読み物のどこがいいんだい?」
僕は、大好きな皐月先生を貶されて少し腹が立った。
「そこがいいんじゃないですか!文章も美しいですが、登場人物が苦難を乗り越えてみんな幸せになる。あんなに素晴らしい物語を書いている皐月先生は、さぞ心が美しい方なのでしょう。」
「心が美しいねぇ…。」
「きっと綺麗な女性だと思うんです。」
「…なるほど。」
先程から気のない返事ばかりを返される。
どうにも、彼に皐月先生の良さが伝わらないようだ。
「特に、僕はデビュー作の兄弟の話が好きなんですよ。知っていますか?20歳まで生きられない妹のために、兄が妹の病を治そうとする話!最後、妹が病を克服して、嫁入りする場面が、とても感動的で…っ。」
どうにか良さを伝えようとした時だった。
「あっ!」
たまらずに、声をあげた。
視界に入った本棚に、見覚えのある背表紙が見えたのだ。
「あるじゃないですか!皐月先生の本!」
棚の上段から並んでいる本たちは、間違いなく皐月先生の本だった。どうやら、僕が読んだことのない作品まで揃っているようで、感嘆する。
「なんだ。貴方もファンなんじゃないですか!すごい!たくさん揃ってる!」
目を輝かせる僕に、彼は片手で口元を押さえている。
どうやら、呆れて笑っているらしい。
「読みたいかい?」
「もちろん!!!」
棚から目を離せないまま答えてしまったが、彼は構わずに話を続けた。
「衣食住が保証されている上、休憩時間は好きな本を読み放題。そんな仕事があったら、引き受けるかい?」
「えっ?」
突然の話に、驚いて彼を見やる。
「そんなに好条件のお仕事なら、やりたいですが…。お仕事はどういったものなのでしょうか?」
「仕事内容は、書類整理や雑務と、家事全般。掃除や洗濯に加えて食事の支度も勿論含まれる。先程の掃除している姿を見るからに、君はそういったことに長けていそうだ。…もちろん皐月先生の本も読めるよ。」
「やります!!」
僕は、すかさずに手を挙げて引き受けた。
そんな僕を見て、彼はニヤリと笑った。
「決まりだね。今日から、ここに住むといい。隣の部屋を一つあけよう。」
「お部屋までいただけるのですか?僕、廊下でも寝れます!」
「そんな所に寝られたら、こちらが迷惑だよ。」
彼はそう言いながら、サンドウイチを一つ取り出すと、僕へ差し出した。
「ほら、お食べ。午後はまた掃除の続きをしてもらうよ。」
「はい!」
大きく返事をして、手渡しで受け取る。サンドウイチを一口食べると、ハムとパンの美味しさに顔が綻んだ。
「あの!働くにあたり、貴方のお名前を伺っても…。」
そう尋ねた時、不意に頭の中で、女性の声が響いた。
『お前なんかの名前を口にしたら呪われそうだよ!その汚い口で私の名前を呼ばないでおくれ!!気味が悪い!!!』
随分前に言われた言葉だった。
けれど、その金切り声は未だに僕の頭から離れない。
不自然に言葉が途切れた僕に、彼は言った。
「ここでは、私はただの先生だ。君も拾われただけの、ただの猫吉くん。それで十分じゃないかい?」
その言葉に、僕は頷くことしかできなかった。
二口目のサンドウイチは、味がしなかった。