第四話
「……、おとうと?」
僕の間抜けな声が、店内に響いた。
掴まれていた襟首は突き放すように離されて、浮いていた僕の腰は、勢い良く丸椅子へと落ちた。
彼女は、その手をパンパンと払いながら言った。
「気配を辿って来たんだから。あんたでしょ?せっかく病院から帰ってきた弟を拐ったの。」
告げられた言葉の意味が分からず、もう一度尋ねる。
「僕には、君の言っていることが分からないんだ。……えっと、弟さんを探しているの?」
すると、吊り目がちな大きな瞳に睨まれる。
「だから、そうだって言ってんでしょ!私が少し家を留守にしたすきに、弟がいなくなったの!家に残ってた気配を辿って来てみたら、あんたはグースカ寝てるし!なんなのよ!あんたの手からも、腹からもあの気配がしたのにっ……。」
肩をいからせながら、叫ぶ声は悲痛だった。よく見れば、彼女の指先は頼りなく震えている。
話を聞けば聞く程、どうやら一大事だということが分かった。
「ごめんね。」
僕が謝罪すると、彼女はポカンと口を開けた。
「………は?」
「寝てたことを謝るよ。ごめんね。だから、その弟さんの話を詳しく聞かせてもらえないかな?」
そう話しながら、彼女を見上げる。なるべく落ち着いてほしくて、言い聞かせる様に言葉を紡いだ。
彼女は、肩上の短い髪を揺らして一歩下がる。
「……あんた、本当に何も知らないの?」
睨んでいた瞳は、狼狽えるように揺れ出す。そんな様子に、申し訳ない気持ちになりつつ答えた。
「知っていたら良かったんだけど、僕もさっき買い物から帰ってきたばかりなんだ。今日は、この家と八百屋までの往復しかしてないよ。本当だ。」
そう言いながら、買い物籠を指差した。
彼女はカウンターの上に鎮座する籠を覗き込むと、また僕を訝しげに見る。
「じゃあ、なんであんたから気配が……。」
そう言いかけた時だった。
ガタン……!!
何かが床に落ちる音がして、僕も彼女も同時に顔を向けた。視線の先にいたのは、あの三毛猫だった。小さな手を宙に浮かせたまま、僕達の視線を一身に受けて固まっている。
見れば、棚に置かれていた筈の獅子舞の首が、床へと転がっていた。
「あっ!こら、だめだろう?」
僕は慌てて立ち上がり、獅子舞を拾いにいく。猫は悪びれもせずに、伸ばしていた手を舐めて毛繕いを始めた。
獅子舞に傷がついてないか確認していると、後ろから大きな声があがった。
「お、お前かっ!!!」
振り返れば、彼女の目は、これでもかと見開かれていた。
「だから、僕じゃないって……、」
「ちっ、がーう!!!」
僕の言葉は大きな声に遮られた。彼女は、顔を真っ赤にしながらプルプルとその身を震わせている。
そして、此方を指差し言った。
「あんたじゃなくて、その猫よっ!!!!」
「…………え?」
僕は、呆気にとられて獅子舞を落としそうになった。
「いや、猫には誘拐は無理なんじゃ……?」
「でも、その猫から嫌な気配がするのよ!私、見ればわかるんだから!その猫、あんたの猫!?」
「いや……、外で風に煽られて震えていたから、連れて帰ってきただけだけど………。」
戸惑いながら答えていると、僕の背を何かが飛び超えた。
「きゃっ!!!」
女の子は驚き、短い悲鳴をあげる。
それは、猫だった
猫は、先程までのんびりと毛繕いしていた姿が嘘のように、棚からカウンターへ大きく飛ぶと買い物籠の中へと小さな頭を突っ込んだ。
「ちょっ、何してるの!?」
僕は驚いて叫ぶ。
その声に顔をあげた猫の口には、一本のニシンが咥えられていた。
「あっ!こらっ!!」
慌てて伸ばした手は呆気なく避けられる。
猫はニシンを咥えたまま、華麗に身を翻して今度は別の棚の上に登ってしまった。
「先生のおかず返してよ!」
「私の弟を返してよ!」
僕達の声が重なった時、
カランカラン……!
店のドアベルが鳴り、扉が開いた。
そこから現れたのは見慣れたスーツ姿に、今日もネクタイをきっちりと締めている佐近時さんだった。
「こんにちは〜!近くまで来たから寄っちゃった!お土産もあるよ〜。」
袋を掲げて意気揚々と入ってきたその姿に、猫を追いかける僕達の動きが止まった。左近時さんは、少し野暮ったい前髪の向こうから瞳をパチパチさせて僕達を見つめた。
「あれ?もしかして、お邪魔だったかな?」
そう言いながら首を傾げる長身の向こうに、開いたままの扉が見える。はっと、棚の猫を見ると、その瞳は扉の隙間へと熱い視線を注いでいる。
「左近時さん!扉、閉めて!!!」
「え、なに?とびら!?」
僕が言うや否や、猫は高い棚の上から床へ飛び降りた。そして、狼狽えて右往左往する長い足を潜り抜けて、その姿は扉の向こうへとあっという間に消えてしまった。
「「まって!!!」」
先に動いたのは、女の子だった。
状況が未だに飲み込めない左近時さんを突き飛ばして外へと飛び出す。彼女の細い腕は、思いの外力強かったようで、左近時さんは突き飛ばされて床に尻餅をついた。
「え、なになに?俺、何かしちゃった!?」
あわあわとしている彼の横を、僕も走って通り過ぎる。
扉から出る前に、振り返って大きく頭を下げた。
「左近時さん!留守番お願いします!」
そうして、そのまま外へと飛び出した。
一方で、店内に一人で残された男は、尻餅をついたまま放心していた。乱暴に閉ざされた扉をしばらく見つめていたが、はっと意識を取り戻すと力一杯叫んだ。
「ちょっと、どういうことー!?」
しかし、その叫びは誰の耳にも届かなかった。




