第一話
「それで、君は?なにをしていた?」
先生の咎める声が、二階の座敷に響き渡る。
部屋に灯る行灯の光は、闇の中で揺めきながら僕達二人を照らしていた。
ここは、先生の部屋だ。
いつもなら心を落ち着かせてくれる古紙やインクの香りも、今の状況では効果を成さなかった。
もう随分と長く正座をしているせいで、足先の感覚はとうにない。それでも僕は口を噛み、黙秘を続けた。
また口を開けば火に油を注いでしまうことを、ひしひしとその肌で感じていたからだ。
けれど、何も答えない僕に痺れを切らした彼は、ついに暴挙へと出る。
「ぃやっ、や、やめて…くださ……ぃっ!」
僕の抵抗する声は、力なく響いた。
突然の刺激に、全身が震える。
「納得のいく答えが聞けるまでやめないよ。」
そう言って僕を見下ろす冷え切った眼差しは、何処までも無情だった。
ぐっと拳を握って耐え凌いでいたが、もう耐えられない。次の瞬間、僕の体は座敷へと倒れ込んだ。
「だからって……、こんな………!」
助けを求めて足掻いた指先は、冷たい畳を引っ掻くだけだった。
酷い!酷い!酷い!
僕は、大きく息を吸うと、叫んだ。
「だからっ!話しますからっ!!
煙管で痺れてるところ突かないで下さいぃい!!!」
その声は、部屋に大きく木霊した。
目の前には、嬉々として僕の足を煙管の先で突く悪魔がいる。
いや、悪魔じゃない。大魔王だ。
それ以上されないように足を動かそうとするが、一度痺れた足は思うように動かない。その間にも、隙あらば攻撃を繰り返す煙管を、僕は思い切り手で押し退けた。
「だから、ごめんなさいってば!」
やけくそになって何度目か分からない謝罪をすれば、目の前の綺麗な顔をした大魔王は、呆れたように大きな溜息をついた。
「だから、なぜ"風鈴の客"に茶なんて出していたのかと尋ねている。」
その質問に、喉がつまる。
「だって、暑くて喉が渇いたと仰っていたので……。」
「私が帰るまで、何故待たなかった。」
「だって、今日は店に立つことを許して貰えたから…、つい、嬉しくて………。」
「だってだってと、だってが多い!」
「だ、だって………、ん〜!もう!もう突かないで下さい〜!!」
この押し問答は、かれこれ一時間にも及ぶ。
そうなのだ。
今日は、僕にとって初めて逢魔が時に店に立つことを許された記念すべき日であった。
朝餉を食べている時に、それは唐突に言われた。
「今日は風鈴が鳴ったら私と共に店に出なさい。眼鏡は外してかまわない。」
初めて言われたその言葉に、僕は思わず箸を落とした。酷く驚いたが、それ以上に胸は高鳴った。
何故なら、いつもは眼鏡を掛けて家の奥で待機なのに、ついについに店に立つ許可を貰えたからだ。
この家に僕が来てから、もうすでに季節は春へと移り変わろうとしている。
正直に言えば、まだ死人と対峙するのは怖い。
けれど、ようやく先生のアシスタントとして認めて貰えたようで嬉しかったのだ。
だから、あんな事態になったのだと思う。
一言で言えば、僕は、浮かれていたのだ。
空が燃えるように赤く染まる逢魔が時。
風鈴の音は、台所に立つ僕の耳に届いた。
音に導かれるままに、店に飛び出してしまった後、僕は、しまった!と後悔する。午後になってから先生が急用で家にいない事をすっかり失念していたからだ。
だが、そこへ静かに佇んでいたのは、紳士的な老人だった。
小綺麗なスーツに身を包み、洒落た帽子とステッキを持った彼は、僕を見ると小さくお辞儀した。
「真っ暗な中を歩いていたら、この店だけが明るく見えて……、勝手に入ってしまい申し訳ない……。」
綺麗に整えられた髭と眉は元気なく垂れている。穏やかな声は小さく震え、困り果てているようだった。
僕は、直感的に分かった。
まだ彼は、自分が亡くなったことに気がついていないのだと。
僕は安心させるように笑顔で言った。
「大丈夫ですよ。いらっしゃいませ!」
そして、とりあえず紳士に椅子を進めて座ってもらう。自分が考え無しに店に立ってしまったことを反省しつつ、怖くなさそうな相手に安堵した。
そういえば、初めから此方に悪意を抱いている者は結界によって入れないようにしてあると、以前教えてもらったことを頭の片隅で思い出す。
時間はあるのだし、ゆっくりと彼の話を聞きながら先生の帰りを待つことにした。
しばらくは、他愛のない話を和やかにしていた。
そんな時、彼が突然言い出した。
「先程から、やけに暑いんだ。しかも喉が渇いてたまらない。」
よく見ればその額には汗が滲んでいる。
僕は、彼にそのまま待つように伝えると、台所へと戻った。客人に対してただの水を出すのもは憚られ、悩んだ末に、水を注いだコップと温かい茶を淹れた湯呑みをお盆に乗せて店へと戻った。
紳士は嬉しそうにお礼を言うと水を一気飲みした。
そうして、茶を指さし「此方も飲んで良いのかい?」と尋ねてきた。「どうぞどうぞ!」と勧めると、彼は湯呑みを持ち、一口茶を含んだ。
……のだが、突然叫び始めたのだ。
「ぁ、ぁつい!熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!」
湯呑みは床へ落ち、割れる音が店に響いた。
紳士は、その手で自分の身体中を掻きむしり、髪を振り乱して発狂した。
「熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!熱い!」
次第に、焦げつくような臭いが鼻を掠める。すると、目の前の紳士は一瞬にして炎に包まれた。
「熱い!熱い!熱い!熱い!熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い………、まだ死にたくない!!!」
そう叫んだ瞬間、彼は此方に襲いかかった。
僕は、咄嗟にポケットから形代を取り出し投げる。
そして、負けじと大きな声で叫んだ。
「入式神見幻夢!」
ところが、何も起こらなかった。
それどころか、形代は宙を舞いながら、彼の炎に焼かれて消えたのだ。
消える形代を目の前にして、僕は絶望した。
燃え盛る炎は、もう目前へと迫っている。恐怖のあまりきゅっと目を瞑り、胸の中で叫んだ。
クロ……!先生………!!
頬に熱い炎が触れそうになった時、
その炎は、もっと熱い灼熱の業火に遮られた。
目を開けると、朱雀が大きく旋回してゆく姿が見えた。
「これだから、おちおち留守番もさせられないんだ。」
声がした方を振り向くと、先生とその隣に小さな黒犬がいる。思わず、声を張り上げその名を呼んだ。
「先生!クロ!!」
先生は、その間にも九字切りの呪文を唱える。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
彼の周りの空気が、まるで命が宿ったかのように煌めきながら舞い始める。細く長い指先が矢をなぞった。
「六根清浄 急急如律令」
漆黒の弓が大きくしなり矢を放つ。
紳士の体からは炎が消え失せ、最期、彼は穏やかな微笑みを浮かべた。
「もう、熱くない……。ありがとう…………。」
そう言い残すと、その体は散り散りになり天へと消えた。店に訪れた静寂は、先生によって破られる。
先生はくるりと振り返ると、店の扉を乱暴に開けた。
そして、もう妖の類が一切入って来れぬように退魔の護符を貼りつけ「今日はもう店じまいだよ。」と言い捨てると、僕の腕を引いて二階へと上がったのだった。
そうして、今に至る……、のだが。
「肉体がない意思だけのエネルギーは常に不安定だ。特に強い"生"の力と対峙し、正気を保てる者は少ない。今回の客は、火事で亡くなった者だろう。おそらくは、熱に触れたことがきっかけで、焼け死んだ時の記憶が呼び起こされたんだ。」
先生の言葉に、炎に包まれた彼の姿が頭を過ぎり、無性に胸が痛んだ。そんな僕の様子を見ながら、先生は弄んでいた煙管を足から引いた。
「私を呼びに来た犬神に感謝することだ。前に忠告しただろう。力を持つ人間は、彼らにとっては常闇の光となる。持つ力が強ければ強い程、強烈に彼らを惹きつけるとね。」
そうして、こんこんと続いていたお説教は、次の言葉で締め括られた。
「今後は、"風鈴の客"への対応は、私がいる時のみとする。そして、明日から一週間は君は謹慎だ。」
「き、きんしん……?」
「一週間は店に立つことは許さない。それが、たとえ日中であってもだ。」
全ては自分の招いたことなので、何も言い返せない。「わかりました。」と素直に聞き入れるしかなかった。
「せいぜい、家の中で大人しくしていることだ。」
だが、先生はそう言った後、少し考える仕草をしてから言葉を付け足した。
「……ただ、明日行くと言っていた買い出しだけは許可しよう。私は明日も用があってついては行けないが、買い物が済んだら真っ直ぐに家に帰ることが約束だ。寄り道はしないこと。いいかい?」
まるで子供に言い聞かせるように言われて、恥ずかしさに顔に熱が集まるのを感じた。
「買い物くらい、僕だって何事もなくできますよ。」
僕の不貞腐れた言葉に、先生は目を丸くする。
そして、形の良い唇は、ゆっくりと左右に吊り上げられた。
闇に浮かぶ白い指先が、煙草盆に煙管を打ち付ける。
カンッ…………!
鳴り響く音が消えた後、
「どうだろうね。明日は、春一番だ。」
そう呟いた先生の声は、闇夜へ吸い込まれた。




