番外編②---万問屋の妻の独白---
初めて社の前で出会った少年は、実に育ちの良さそうな品のある顔をしていた。
綺麗な濡羽色の髪に、髪と同じ色をした大きな瞳が丸眼鏡の奥に収まっている。
突然話しかけてしまったせいか、振り返った彼は酷く驚いたように、その瞳を見開いていた。だが、こちらが名乗ると、途端に人懐っこそうな笑みを浮かべた。
私は、話しながら横目で彼を見やる。
良質な着物を見に纏っており、良い所に書生として世話になっているどこかの坊ちゃんなのだろう。まだ少しの幼さが残るまろやかな頬は、健康そのものだ。
なんの苦労も知らなそうな彼の姿に、私は苛立ちと共に悲しさが募った。
もうあの人ではなくなりつつある後ろ姿が、脳裏に浮かぶ。
「どうか、これ以上は調べないで。」
それが、私に言える精一杯の言葉だった。
そして、あの雨の日を迎える。
突き飛ばされたせいで、体のあちこちが痛い。頭を強く打ち付けたせいで、グラグラと視界が歪む。
私にこんな仕打ちをしたのは、彼の姿形をしているだけの得体の知れない男だった。
『俺は、君を必ず幸せにするよ!』
どうか、そう紡いでくれたその口で、乱暴な言葉を言わないで。
『君をいつまでも愛し続けるよ。』
どうか、そう囁き抱きしめてくれたその手で、私に暴力を振るわないで。
あぁ、神様。私の知っている彼を返して。
そう願わずにはいられなかった。
そして途切れた意識は、大きな物音で目覚めた。
彼が倒れているのが見えて、力の入らない体で地面を這って近づいた。彼の顔は青白く、生気がない。
「あんた……、あんた………。」
私は、警察に引き離されるまで、呼びかけに反応しない体を抱きしめて呼び続けた。
意識の戻らない彼は病院に運ばれたが、数日経っても意識は戻らないままだった。その体は酷く衰弱しており、放っておけば命に関わったそうだ。
彼が眠っている間に、蔵からは、見たこともない祭壇と、犬・幼女・成人女性の三つの白骨が見つかった。
それらは、調べによって大正のものではないことが分かり、私や家族が事情聴取を受けた。
私は、警察署で重い口を開いた。
「きっと、先代達の仕業だと思います。」
狭い取調べの部屋で、震えながら言葉を紡ぐ。
「私の狂って死んだ父も、祖父も、死ぬ前に言っていました。『犬神様に供物を捧げよ』と………。」
とても馬鹿げた話だが、全ての事情を説明した。
だから、彼はまだ誰も殺していないと。それだけでも伝わればと、必死に話し続けた。
すると、無精髭を生やした大柄な男が部屋に入ってきた。皺がよったワイシャツを腕まくりしながら、私の前に座っていた警官の耳元で何かを告げて交代する。
どかりと座ったと思ったら、低い声で告げられた。
「旦那が目を覚ました。白骨遺体の犯人は、とうに死んでる。簪家と娘と剣道場の息子の親達は、あんたらを訴えないそうだ。厳重注意の後に釈放!以上だ。」
足早に告げられたその言葉を、すぐには信じられなかった。
「本当に?彼の、お咎めはっ!?わ、私も一緒にっ!」
「だから、無しだって言ってんだろうが。早く帰れ馬鹿野郎!訳わかんねぇ世界に付き合う方の身にもなれってんだ……、あの野郎が。」
ドンっと机を叩かれる。
その男が最後に呟いた言葉の意味は理解できなかったが、私は他の警官に促されるままに警察署から解放された。
その足で、病院まで急いだ。
真っ白な病室に辿り着くと、点滴に繋がれたままの彼がベッドから上半身だけを起こし、窓をみていた。
「………あんた。」
そう小さく呼ぶと、その肩が揺らいだ。
そうして、ゆっくりと振り返る。
「ごめんなぁ………。」
皺がれた声が言った。
その瞳からは、大粒の涙が溢れている。
情け無い目の前の男は、私が愛した彼だった。
たまらずに、駆け寄りその体を抱きしめた。
私は、何度も何度も謝り続ける彼に言った。
「馬鹿だねぇ、謝る相手は私じゃないよ。謝りにいこう……。二人で………、一緒に。」
腕の中で、彼は頷いた。
それから、お互いにいい歳をした大人なのに、みっともなく声をあげて泣き続けた。
心から、彼を返してくれた神様に感謝した。
退院後、簪家と剣道場に足を運んだ。
簪家では、店の戸を開けては貰えなかった。
裏の門へと回り、私達は庭先で土下座した。
いつまでも動かないでいると、痺れを切らしたように父親に声を掛けられた。
「私達は、貴方達のしたことを許せない。でも、帰ってきてくれた娘の願いと、今まで世話になったことに免じて訴えなかっただけだ。……もう、会いに来ないでくれ。」
私達は、頭を下げることしか出来なかった。
剣道場の方は迎え入れてはくれたが、やはり同じような対応だった。
彼の行いは商店街中に知れ渡り、私達は店を休業した。
毎日、謝罪を続ける日々が続いた。
そして、簪家の引っ越しの日。
「………元気で。」
そう言ってくれた珠子達の父親の顔は、涙に揺らいでいた。その顔に、うちによく遊びに来ていた幼き日の顔が重なる。我が家の庭先で、うちの息子とよく遊んでいた、可愛かった少年。商店街の今の親世代は、みんな私達の子供のようだった。
あの頃は、良い時代だった。
けれど、時は流れた。
かつて子供だった筈のその手は大きく、かつて大人だった筈の彼の肩は、すっぽり覆われる程に小さいことに、今更気付かされたのだった。
その日の夜に、彼が呟いた。
「あの子にも……、きちんと謝りたかったな。」
脳裏に、眼鏡の少年の姿が浮かんだ。
だが、私も彼も、少年の本名も居場所も分からずに何もできなかった。
すると、ある日彼が一冊の雑誌を手にして言った。
「この雑誌に掲載している作家のアシスタントをしていると言っていた。三日月堂に手紙を送ってみないか?」
それから私達は、無駄かもしれないと覚悟しつつ、文字を綴った。封筒の中に、アシスタントをしている彼に渡して欲しい旨を綴った文と共に、『猫吉様へ』と宛名書きした手紙を入れる。
どうか、少年に届くように祈りポストへ投函した。
だから、驚いたのだ。
まさか、彼から返事が来るなんて、思っても見なかった。
次で閉話です。




