第三十六話
その日は抜けるような青空であった。
冬の厳しい寒さは和らぎ、河川敷に並ぶ梅の木はその蕾を開かせ始めている。
僕は、先生と一緒に商店街へと向かった。
辿り着いた先は、相変わらずの賑わいを見せていた。
明るく人々が行き交う景色を眺めながら、僕は不意に会長の言葉を思い出す。
『百貨店などというものに、どんどんと客を奪われ、しまいには商売仲間まで奪われる始末……。』
意識して見れば、暖簾が外された店や、客足が遠のき活気のない店達は確かにあった。
「いらっしゃい!安いよ安いよ!今ならオマケだって付けちゃうんだから寄っといでっ!!」
客寄せの為の元気な声が、あちこちで響き渡る。
ただ、賑やかだと感じていたそれは、それぞれの店が必死に客を呼び込もうと奮闘する姿だった。
時代の変化による皺寄せが、確かにこの商店街には訪れている。
会長がしようとした事は許される事ではない。
けれど、今ならば。
必死に足掻こうとした彼の気持ちが、少しだけ分かったような気がした。
簪屋の前に辿り着くと、そこにはもう信介くんが待っていた。
「ねこきちさん!」
大きな声で振り向く彼だが、その笑顔にはいつもより元気がない。僕達が話していると、店の戸が開く。
そこには、珠代ちゃんがいた。
「信介くんと、猫吉さん達まで!わざわざ来て下さり、ありがとうございます!」
そう言って笑った彼女の元気そうな姿に安心する。
「上がって下さいと言いたい所ですが、もう家の中に何もなくて……。」
お茶も出さずに申し訳ないと言う彼女に首を振っていると、その後ろから呼びかける声がした。
それは、珠ちゃんと御両親だった。
彼らは、店先へ出てくるなり深々と頭を下げた。
「あの時、娘を見つけてくれてありがとう。礼を伝えるのが遅くなってしまい、本当に申し訳ない。」
父親にそう言われて、僕は慌てて首を横に振った。
「そんな事はありません!それに、珠代ちゃんを助けたのは、信介くんですから。」
僕がそう言うと、今度は信介くんが首を横に振る番だった。
二人で謙遜しあっていると、不意に僕達の背後から声がした。
「簪屋さん……。」
振り返ると、そこにいたのは会長と奥さんだった。
僕は、驚かなかった。
結局、珠ちゃんの御両親も信介くんの御両親も、彼らを訴えなかったということを手紙で聞いていたからだ。
しかし、人骨騒動があったこともあり、彼の店はしばらく休業しているそうだ。
二人は、此方に向かって大きく頭を下げた。
「この度は、大変申し訳ありませんでした。許して下さいとは、言いません。」
会長が、顔を下げたまま言葉を紡ぐ。
「今は、あなた方の商売繁盛を心から願っている。ここを離れても……、どうか元気でいて下さい。」
彼の肩は震えていた。その肩に、珠代ちゃんの父親はそっと手を置く。
「………あなたも、元気で。」
顔を上げた二人の顔は、涙で濡れていた。
その涙を流す瞳は、僕に声をかけてくれた頃の、優しい世話好きな彼のものだった。
二人は、もう一度頭を下げるとその場を去った。
その姿を見送った後、御両親は言った。
「先に庭にでているからね。話が終わったら出発するよ。」
珠ちゃんも元気に「ばいばい!」と此方に手を振ってくれ、両親に連れられて中へと戻る。
その場には、珠代ちゃんだけが残った。
彼女は此方に向き直ると、僕達に頭を下げた。
「お二人とも、本当にありがとうございました。あの日の事は、まるで夢のようだったけれど……。私、助けて頂いたこと絶対に忘れません。」
先生は腕を組み、黙って頷いた。
「怖い思いをさせてごめんね。珠代ちゃんも元気で。いつか、新しいお店に買い物へ行くよ。」
僕がそう言うと、彼女は朗らかに微笑んだ。
「ありがとうございます。お待ちしていますね。」
そうして、珠代ちゃんは信介くんを覗き込んだ。
「信介くんもありがとう。…元気でね?」
そう優しく語りかけたが、彼は俯いたまま黙り込んでいた。その拳は、固く握られている。
幼い肩は、微かに震えていた。
珠代ちゃんは、少し困ったように笑う。
「それじゃあ、私、もう行かなくちゃ………。」
そして、彼女は告げた。
「さようなら。」
その言葉を聞いた瞬間、その拳は開かれた。
背を向けようとしていた彼女の手を、小さな手が引き止める。
振り返った彼女の瞳は、驚きで見開かれた。
信介くんは、その手を握ったまま見上げて言った。
「ぼくは、あなたをもう『おたまさん』とはよばない。ぼくは、ただのぼくだから。」
幼い瞳は真っ直ぐに彼女を見据えている。
そして、迷いなく言葉を紡いだ。
「ぼくは、あなたがすき。」
その小さな体は、もう震えてなどいなかった。
「このてだって、いまはまだこんなにちがう。ぼくは、すごくちいさい。でも、おとなになったら、ぼくのほうがおおきくなります。」
珠代ちゃんは、黙ったまま彼を見つめ返した。
「せだってっ……!」
信介くんは珠代ちゃんの掌を強く握った。
「すぐに、おいこします。だから……、っ!」
「信介くん。」
珠代ちゃんが、そっと言葉を遮った。
名前を呼ばれて、信介くんは押し黙る。
彼女は、一度深呼吸をすると、静かに言った。
「母に、言われたことがあるの。私がまだ五歳だった頃、知らない人の名前を呼んでよく泣いていたって。」
その言葉に、信介くんは息を呑んだ。
彼女の声は、耐えるように震えていた。
「きっと、あの頃の私は、あの人を覚えていたんだと思う。そして、ずっと探していた。」
柔らかな頬に、涙が一筋伝う。
「でも、今はもう思い出すことすらできないっ。」
彼女は、信介くんの手を一瞬だけ強く握り返すと、そっと離した。
そして、彼に背を向ける。
「だから、十年後に会いましょう?その時、まだ君が私を想っていてくれたのならっ…。その時は、どうかっ……、どうか、迎えに来て。」
そう言い残すと、彼女は駆け出した。
その後ろ姿に向かって、信介くんは叫んだ。
「かならずっ、かならずむかえにゆきますから!だから、こんどはっ……!!」
おぼえていましょう。ふたりで。
幼い声は、道いっぱいに響き渡った。
珠代ちゃんの姿は、店の中へと消えてもう見えない。
小さな背中は、しばらくその場に佇んでいた。
人の"生"も"想い"も輪廻する。
巡り廻った先には、必ず幸せな未来が訪れるだろう。
それは、きっと十年後の未来でわかる筈だ。




