第三十五話
布団から出ると、急いで身支度をした。
いつもより遅くなってしまった朝餉の支度に取り掛かろうと台所に向かうが、何だかいつもと様子が違う。
よく見ると、家の中に先生の気配がなかった。
「先生?」
不思議に思い、呼び掛けながら家の中を歩き回る。
廊下を歩いていると、窓越しに見えた裏庭にその背中はあった。重い引き戸を開けて、僕も庭へと降りる。
太陽は高い位置に登り始めているが、空気は冷たく澄んでいた。水溜りを避けながら、その背に近づく。
小さな庭の片隅で、先生は焚き火鉢に薪をくべていた。
そこには、赫い炎が燃え上がっている。
「何を、されているんですか?」
僕は、背後から声を掛けた。
突然声を掛けたにも関わらず、先生は特に驚きもせずに、振り返りもしなかった。
「お焚き上げだよ。」
そう返事をした彼の手には、あの日持ち帰った文楽人形のガブがあった。
「燃やしてしまうんですか?」
僕は、その隣に並び立ち、見上げて尋ねる。
すると、先生は首を横に振り此方を見た。
「ただ、燃やすんじゃないよ。神聖な炎によって浄化し天に還すんだ。」
そう静かに告げると、また火へと視線を戻す。
「もう、この子はここにいる必要がないだろう?」
そうして、先生は躊躇いもなくガブを炎へ放り投げた。
ガブは一瞬で赫い炎に包みこまれる。
白い頬が、黒く焦げ付き燃えてゆく。
僕達は、それ以上は何も話さなかった。
僕は見守りながら、そっと両手を合わせた。
燃え尽きてゆくガブは、どこまでも穏やかな微笑みを堪えながら、炎の中へと消えていった。
朝餉の後、ダイニングでお茶を飲んでいると、僕は何気なく開いた朝刊紙に驚かされた。
そこには、大きな問屋の蔵から、人骨が見つかったという記事が記載されていたのだ。
『蔵からは、大人の女性と思われる人骨と幼い女児の人骨が見つかった。どちらもかなり古いものと見られ、身元の特定がー………。』
新聞を眺めながら、僕は呟いた。
「おたまさんだけじゃなくて、明治時代の子も殺められていたんですね……。」
痛ましい記事をそれ以上みていられずに、そっと新聞を閉じる。
すると、先生の声が聞こえた。
「おや、言ってなかったかい?」
その言葉に、僕は顔を上げる。
先生は、さも当然というような顔で言った。
「君があそこにいると知らせてくれたのは、その女の子だよ。」
「えっ!?」
思わず、大きな声を出してしまった。先生は煩そうに眉を顰めながら、言葉を紡いだ。
「しばらく仕事をしていたら、風鈴の音が響いたんだ。下へ降りると、君はおらずにあの子だけがいた。お願いされたんだよ。『助けてあげて。』…とね。」
知った真実に、僕は息を呑んだ。
感謝の思いで胸がいっぱいになると同時に、自分は助からなかった女の子を想うと苦しくなった。
「……ありがとう。」
そう小さく呟いた。
どうか、この言葉がその子に届くといい。
輪廻する彼女の魂にも、幸せが訪れますように。
僕は、心からそう祈った。
あれから、僕は一度だけあの商店街を尋ねた。
簪屋さんは、店先の暖簾を下ろしていた。
その扉は固く閉ざされ、その日は珠ちゃん姉妹に会うことは叶わなかった。
次に訪れた剣道場からは、元気な声が聞こえた。
門から中を覗くと、庭先に信介くんがいた。
彼の手と頭には、痛々しい包帯がぐるぐると巻かれていたが、その手で竹刀を振るっていた。僕が声をかける前に、父親が駆け寄ってきて怒鳴り始める。
信介くんは、父親の背中越しに僕を見つけると、嬉しそうに笑ってくれた。
そして、お互いに怪我の状態を心配し合う。
その溌剌とした瞳には、もう信さんの面影は見えなかった。
しかし、それでいいのだと思う。
僕は、そう自分の胸に言い聞かせた。
信介くんとは、互いに住所を教え合い、今では手紙のやりとりをしている。
そして、月日は流れた。
珠代ちゃんが引っ越す日が決まったという知らせを受けたのは、僕の頭の傷がすっかり癒えた頃だった。




