第三十四話
常闇の中に、ぱらぱらと音が響き始めた。
音につられて、そっと目を開く。
月明かりも照らさない闇の中で、何かが窓を打ち付けていた。どうやら、夕方には止んでいた筈の雨が、また降り出してきたようだ。
僕は、ゆっくりと体を起こした。
夕餉を軽く食し、卵酒で温まった筈の体は、もう既に冷え切ってしまっていた。
早めに床についたのが悪かったのだろうか。
こんな夜更けに、しかもよりによって雨の中で目を覚ましてしまうなんて、思ってもみなかった。
どんどんと強まる雨音が部屋を満たしていくにつれて、僕の手足の指先が震え始める。
全身には、じっとりと嫌な汗が広がってゆく。
唐突に頭の中で、昼間間近に見た男の顔が林のあの人の顔に重なり、僕は慌てて首を振った。
違うー…。
あいつはあの人じゃないー…。
あんな顔ではなかった筈だー…。
鼓動が速くなる胸を手で抑えながら、必死に言い聞かせる。
怖くないー…。
雨なんて、怖くないー…。
だが、そう思えば思う程に、男の血走った目が忘れられなかった。
頬にあたったあの男の吐息が、かつて耳元に触れたあの人の吐息の感触を生々しく思い出させる。
その瞬間、背筋に悪寒が走った。
『…すけて!だれか、だれか……!』
雨の晩に繰り返される自分の悲鳴が、頭の中で反響する。震える指先で、自分の膝を布団ごと掻き抱いた。
「………たすけて。」
けれど、振り絞ったその声は、情けなく布団に零れ落ちるだけだった。
その時、誰かの声が聞こえた気がした。
雨音の中に、微かな話し声が入り混じる。
「……で、な…もきけなかっ……か。」
低い男の声だった。
耳を澄ませると、聞き覚えのある声がした。
「べつに……までもない。…からは……のかおりが……。」
それは、先生の声だった。どうやら、部屋を隔てている襖の向こうで、誰かと話をしているらしい。
僕は布団から這い出し、静かに襖の前へと近づいた。
乱れた呼吸を抑えながら、引き手に手を伸ばす。
けれど、冷たく冷えたその感触が指先に伝わる直前。
襖は、勢いよく開かれた。
行き先をなくした指先が、空を切る。
見上げた先には、寝衣の着流しに身を包んだ先生が立っていた。
「起きたのかい?」
湯上がりなのか、蒸気した頬に、おろされた長い髪がしっとりと絡んでいる。
僕が声も出せずに驚いていると、先生は目を細めた。
彼の後ろには誰もおらず、行灯に照らされたいつも通りの部屋が広がっていた。開けられていた窓から吹き込む雨風に、行灯の灯りが一度だけ大きく揺らぐ。
先生は、僕に背を向けると窓を閉めた。
「今、だれか……。」
「君は。」
言いかけた言葉は、優しい声に遮られた。
「夜更かしなどしない方がいい。それ以上、身長が伸びなかったらどうするんだ。」
「……は?」
言われた言葉の意味が分からず呆けていると、伸ばしかけていた腕を引かれ、勢いよく部屋に引き込まれた。
そのまま座敷に尻餅をつく。
痛がる僕に、ゆっくりと先生が近づいた。
「どれ、身長が伸びるまじないをかけてやろうか。」
「結構です!」
反論も虚しく、彼の指先は僕の頭の上に翳される。
此方を見つめながら素早く五芒星を描いたかと思うと、次の瞬間、その指は僕の額を強く弾いた。
「…っいた!何するんですか!?」
じんじんする額を抑えながら尋ねると、先生は言った。
「九字切りだよ。」
絶対に、最後の痛いやつ必要ないでしょ!
意地悪く口角を吊り上げた男前が憎らしいが、僕は涙目で睨むことしかできなかった。
あぁ、何の話をしようとしていたのか……。
尚も響く雨音に、思考が鈍った。
そんな僕を横目に、先生は此方から体を離すと、座ったままいつものように髪を結った。
そして、煙草盆から煙管を取り出し火を灯す。
「眠れないのなら……。」
立ち昇る煙の向こうで、彼は静かに言った。
「君が知った"恋の話"を教えておくれ。」
行灯の灯りがその瞳に映り込み、まるで、炎のように揺らめいた。
「恋の…話、ですか?」
意外な言葉に、思わず尋ね返す。
先生は、そっと瞳を伏せると呟いた。
「今回、私は結末しか知らないからね。」
長いまつ毛が、白い頬に影を落とす。
僕が知った"恋の話"。
それは、社会の身分制度に抗い身を結ぼうとした、甘く切ない男女の話。
僕は、その場に姿勢を正して座り直す。
正座した膝小僧を、強く握りしめた。
「上手く、話せなくてもいいですか?」
その言葉に、先生は黙って頷いた。
僕は、一度大きく息を吸い込み深呼吸をする。
呼吸が整うと、そっと口を開いた。
「これは、江戸時代の頃の話ですがー……。」
僕の声と、煙管の煙が、静かな部屋を満たしてゆく。
言葉を夢中で紡ぐうちに、胸を掻き乱す雨音は聞こえなくなっていった。
幸せな二人が、頭の中で微笑み合う。
僕の瞼は、少しずつ重くなってゆく。
話終える頃には、すっかり夢現であった。
「もう悪夢はみないよ。…よい夢を。」
最後に聞こえたのは、優しい声だった。
その晩、僕は夢を見た。
それは、甘く切ない恋の話…ではなかった。
住み慣れた家で、じいちゃんと食卓を囲む夢だった。
何故か、そこには先生もいた。
畑で取れた野菜を使った、質素だけどとびきり美味しい食事を前に、仲良く三人で箸をつつく。
懐かしいじいちゃんの料理を口いっぱいに頬張りながら、僕は夢中で喋っていた。
先生と出会った時の少し苦い話。
酷く汚れた骨董品店の掃除をさせられた辛い話。
取材や締切やらで大変な仕事が実は楽しい話。
最近は町の人とも少し仲良くなれた嬉しい話。
じいちゃんは、時折相槌を打ちつつ、微笑んで聞いてくれた。先生は、いつものように静かにお茶を啜りながら、僕の話に耳を傾けている。
もう絶対に、現実では叶うことのない光景が、僕の目の前には広がっていた。
朝日の眩しさに、目を開く。
気がつくと、僕は自分の布団の中だった。
やけにすっきりした体で起き上がる。
なんだかすごく良い夢を見ていた気がするが、自分が何の夢を見ていたのか思い出せなかった。
けれど確かなことが、一つだけあった。
それは、雨の夜でもしっかり眠れたということだ。
満足感に満たされながら、僕は思った。
昨晩見た夢は、楽しい夢だったに違いない。
それはきっと、あの人なんて思い出す暇もないくらいに、それはそれは幸せな夢だったのだろう。
遠くで、じいちゃんが笑った気がした。




