第三十三話
それからは、あっという間の出来事だった。
先生が結界を解くと、犬神様は姿を消した。
僕達は、会長を探しに来た従業員によって発見され、その場は大騒ぎになった。
蔵の中で、頭から血を流した少年と、気絶した男児を抱き抱えて泣く少女。涼しい顔をしてその場にいる美丈夫。
気を失っている会長の近くには、いつの間にか目を覚ましていた奥さんが寄り添っていた。
「あんた…、あんた…。」
奥さんは打ち付けた額から血を流しながらも、震える手で会長を抱き締めて呼び続けていた。
その内に、警察や医者が駆けつける。
僕は、その景色を朦朧とする頭で眺めていた。
先生は沢山の大人に囲まれて、事情の説明を求められている。
「…を呼んでくれ。その方が話が早い。」
その声を聞きながら、次第に僕の意識は遠のいていく。
「猫吉くん?」
すぐ近くで、先生の声が聞こえた。
しかし、僕は、瞼の重さに逆らえない。
瞼が閉ざされる寸前の視界の中で、珠代ちゃんはあの櫛をずっと握りしめていた。
次に感じたのは、瞼の向こうの眩しさだった。
ゆっくりと瞳を開くと、目の前は夕焼けだった。
暗い雲の隙間から夕陽が差し込み、空を茜色に染めている。
体に伝わる温かさが気持ち良い。
僕はもう一度瞳を閉じそうになったが、頬にさらさらとした柔らかな感触を感じてやめた。視線を向けると、それは陽に透けて亜麻色に染まる髪だった。
ゆるく束ねられた色素の薄い髪から、白い頸が覗いている。
僕は驚き、状況が分からずに体勢を変えようとした。
すると、下から声がする。
「こら、動くと落ちてしまうよ。」
それは、先生の声だった。
その時、僕はようやく彼の背におぶわれていることに気がつく。
「先生!?なんで…っ!」
「なんでって、君があの状況で私を置いて寝始めるからだろう。…おかげで、一歩間違えれば私が誘拐犯になるところだった。」
呆れたような声が言った。
記憶を辿りながら痛む頭にそっと触れると、そこには包帯の感触があった。手当はもう済んでいるようだ。
「大丈夫でしたか?あっ!弓とか………。」
「あれは朱雀に家まで運ばせた。流石に私でも言い訳が難しい。」
そう言いながら、先生は少し笑う。
僕の体を軽く背負い直すと、また歩き出した。
「あの…、もう降ろして下さい。家まで、自分で歩きますから………。」
居た堪れずにそう申し出るが、それは却下された。
「無茶をしすぎだ、大馬鹿者が。あの状態の犬神に取り込まれて、生きて帰れただけ自分の運に感謝するがいい。」
一人じゃ立つことも儘ならないだろう…、と言われて自覚する体の怠さにぐうの音もでない。
胸の中は、未だに犬神の記憶に引き摺られているようで、嫌な不快感が残っていた。
「今晩の夕餉は私が支度しよう。」
そう言われて驚いた。
「先生、お支度できるのですか?」
思わずそう返すと「やはり此処へ置いて行こうか。」と恐ろしい事を言われたので、すぐに謝る。
「何か食べられそうな物はあるかい?」
そう尋ねられて、僕は考える。
不意に、口の中に優しい甘さの記憶が蘇った。
「先生の…、卵酒が飲みたいです。」
気がつくとそう言っていた。
だが、それでは夕餉にならないかと慌てて謝ろうとすると、先生は「わかった。」とだけ返事した。
それから僕達は、夕焼けに染まる一本道を静かに歩く。
「信さんは…。」
不意に、その言葉は僕の口から零れた。
「幸せな最期を迎えられたでしょうか?」
静寂の中、先生が地面を踏みしめる足音だけが響いていた。
『私のことなど知らなくていい…。』
頭に彼の声が蘇る。時代を越えて捧げた、彼の見返りを求めない愛に胸が締め付けられる。
「君は、この世で一番強い呪を知っているかい?」
唐突に尋ねられた質問に戸惑う。
僕は、答えが分からずに言い淀んだ。そんな様子を、先生は面白そうにしている。
「それは『愛』だよ。」
先生が言った。
「"憎しみ"や"怒り"といった負の感情の大半は、時間が経つにつれ薄れてゆくものだ。だが、"愛しい"という感情は途方もない。『愛』なんてものは、深まれば深まる程に、人の心を蝕み縛り付ける。」
そう言われて、僕の頭には二組の男女が浮かんだ。
信さんとおたまさん。会長さんと奥さんだ。
最期までおたまさんの幸せを願った信さんと、傷付けられても尚会長さんに寄り添い呼び続ける奥さんの横顔を思い出した。
僕は、どちらにも深い『愛』を感じた。
「どのように生まれ変わろうとも、魂の根本は変わらない。人の"生"も"想い"も巡り廻って輪廻する。それは、あの男も女も同じことだ。」
穏やかな声が、言葉を紡いでゆく。
僕は、静かにその言葉に耳を傾けた。
「例え、記憶があろうと無かろうと、魂の想いは十分に通じ合えたことだろう。そんな相手にもう一度巡り逢えた彼は、必ず"幸せ"に決まっている。」
そう言い切った先生の言葉に、僕の胸は熱くなった。
瞳に滲んだ涙は、夕日の眩しさのせいにして、先生の肩口にそっと顔を埋める。
僕は、ただ頷くことしかできなかった。
着物からは、煙管の甘い香りがした。
その香りによって、自分がようやく日常に帰って来れたことを知る。
こうして、僕達の『巷で話題☆怪奇・犬神様騒動!』の取材は、ひとまず幕を下ろしたのであった。




