第三十一話
全身に纏わりついていた穢れが、塵になりながら、天へと舞い上がる。
それは、ゆっくりと空気に溶けて消えていった。
目を開けると、座り込んだ僕の腕の中に、黒い毛並みの子犬がいた。
しかし、その瞳は白濁していた。走馬灯の中で、黒い彼の瞳は痛んでいたことを思い出す。
僕は、その瞼の上にそっと手を翳した。
あぁ、この瞳もー…。
「"癒せ"たら良いのに………。」
そう呟いた瞬間、掌と子犬の瞼との間が熱を帯びる。
僕が驚いて手を引くと、瞼はゆっくりと持ち上げられた。
その瞳に、僕は見惚れる。
それは、透き通るような美しい紫色だった。
子犬は、そっと僕の着物に鼻先を擦り付ける。
そして腕の中から降りると、静かに珠代ちゃんに近づいた。珠代ちゃんにも子犬が見えているようで、不思議そうに、けれどどこか懐かしそうに揺れる瞳で見つめていた。
子犬が、鼻を鳴らす。
『ごめんなさい…。』
そう、聞こえた気がした。
珠代ちゃんは、麻縄に結ばれたままの手を、そっと子犬に伸ばした。指先で、その頭を撫でる。
「私に、謝っているの?可愛い子犬さん。きっと、あなたは何も悪くないわ。だって…、あなたはこんなに良い子だもの。」
そして、彼女は綺麗に微笑んだ。
子犬は、ただその笑顔を見上げている。
『だって可愛いじゃない!艶々の毛並みもとても立派よ。それに、この子はすごく良い子だもの。』
その姿は、いつかの彼女に重なった。
「また会えて、良かったね…。」
僕は、一人呟く。
良かった。これで、全て終わったー…。
安堵の溜息が、唇から零れた。
しかし、次の瞬間。全身に悪寒が駆け巡る。
蔵の中の空気が、突如禍々しいものへと変貌した。
子犬が珠代ちゃんに背を向け、大きく唸り出す。
その小さな体を震わせると、全身から焼けつくような熱風を周囲に放つ。
「なに…!どうしたの!?」
驚く珠代ちゃんの目の前で、子犬の全身の毛は逆立ち、メキメキとその手足や胴を伸ばしてゆく。そして、あっという間に子犬は大きな成犬へと変貌した。
漆黒の毛並みを神々しく靡かせ、深い紫色の瞳は切長に吊り上がっている。大きな口からは、白く鋭い牙が覗いた。
その勇ましい姿は、まさしく"犬神"と呼ばに相応しい風貌だった。
犬神は、蔵中が震えるほど大きく吠える。
その視線の先には、先生が立っていた。
「おや?…ようやく此方に気がついたね。」
先生は言った。その手は、弓を構えていない。
犬神は、恐ろしい唸り声をあげる。今にも、先生に飛びかかりそうだった。
犬神を、止めなければー…!!!
僕は、勢い良く立ち上がろうとした。
「待………っ!ぅっ…。」
しかし、僕の足は立てなかった。
体に上手く力が入らずに、その場に倒れ込んでしまう。途端に、身体中が軋むように痛みだした。
目は焼けるように熱くなり、呼吸が苦しい。
熱に浮かされた視界の中で、犬神はついに飛びかかった。
「やめ…っ!せ…んせっ………!!」
僕の声は、誰にも届かない。
恐怖のあまり、目をぎゅっと瞑った。
しかし、辺りは静まり返る。
僕は、そっと目を開いた。
犬神は、襲いかかった姿のまま宙で浮いていた。
その鼻先に、先生の掌が翳されている。
「その女を傷つけた相手を、許せないという気持ちは良くわかった。」
先生は言葉を紡ぎながら、その掌を軽く払う。
犬神は、そのまま後方へと弾き飛ばされた。
「しかし、復讐するべきはこの生きている男ではない。この男に"憑いている男"こそ真の相手だ。」
先生は、ゆっくりと弓を構えて振り返った。
「お前の無念は引き受けよう。此奴は特別だ。私が丁寧に送り届けるよ。…"地獄"へね。」
その矢の先には、会長がいた。
だがその顔は、会長ではない別人の誰かの顔が重なって見えた。
突然、彼の高笑いが響き渡る。
しかし、それは一瞬で地を這うような低い声へと変わった。
「どいつも、こいつも、俺の邪魔ばっかりしやがって………。」
その時、小さな呟きが聞こえた。
それは、信さんの声だった。その横顔は酷く青ざめており、小さな体は震えている。
「あいつは…っ、私が殺したはずなのに……。」
その呟きが聞こえた瞬間、男は醜く口元を歪めた。
それは、とても歪な笑みだった。




