第三十話
次の日の早朝。
ぼくは、おたまより早く目が覚めた。久しぶりにおたまの元気な姿が見れたことで、とても気分が良い。
ぼくは、散歩に出かけることにした。
外は、朝日が眩しく、空気は澄んでいた。
昨日のおたまは、とても幸せそうだった。
良かった…。そう、心から思う。
おたまがまた笑顔になれて、本当に嬉しかった。
人間の巣が集まった所から少し離れた道を歩いていると、前から一人の男がやってきた。
「この辺りに子犬がいるって聞いていたが、やっと見つけたぞ。…こっちへ、おいで。」
どうやら、ぼくを呼んでいるみたいだ。
少し警戒していると、男は干し肉を見せてきた。
「ほら、こちらへおいで。餌をあげよう。」
この辺りの人間は、おたまのように餌をくれたら頭を撫でてくれる。この男も、とても優しそうに微笑んでいた。ぼくは、安心して近づいた。
男の手から、干し肉をもらう。
しかし、それは塩辛く美味しくなかった。
それを口から吐き出そうとした時だった。
バサッ!!
男が懐から麻袋を取り出したかと思うと、勢いよくぼくの頭から袋を被せた。突然、目の前が真っ暗になり、何も見えなくなる。
『なにするの!?やめて!こわいよ!!』
いくら吠えても、暴れても、男の力に敵わない。
その内に、急激な眠気に襲われた。
「ちっ、暴れやがって!ようやく薬が効いてきたか。」
男の声が、遠くで聞こえる。
そのまま、ぼくは意識を手放した。
聞き慣れた声が聞こえた気がした。
しかし、それは男の声に遮られる。
「どうしてこんな朝早くからお前がここにいるんだ。」
「ご、ご報告したいことがありまして。旦那様はお忙しいので、朝なら話せるかと思ったのです。…でも、これは、一体どういうことですか!?」
瞼をあげると、ここは薄暗い巣の中だった。
見上げると、先程の男とおたまがいた。
「野良犬をどうしようが、お前には関係ないだろうが!さっさとこの蔵から出ていけ!!」
男が、すごい剣幕で怒鳴りつける。人間の怒鳴り声を久しぶりに聞いて、ぼくは怖くなった。
しかし、おたまも大きな声を出した。
「いっ!いやです!その子は、私の家族なんです。どうか、お願いします。その子を、返してください!」
おたまはそう言いながら、地面に手をつき、深く頭を下げた。しかし、男がその頭を足で踏みつける。
「嫌なこった!なかなか犬がみつからなくて苦労して手に入れたんだ。こいつには、犬神になってもらわなきゃいけないのさ。」
「い、犬神…?旦那様、なにを言って…。」
「そうだ!お前は供物にしてやろう!!」
そう言うと、男はおたまの髪を掴んで引きずった。
ぼくは、急いでおたまの所へ行こうとした。
しかし、なぜか体が動かない。
慌てて手と足を動かそうとするが、重く冷たい何かに阻まれて、どこも動かすことができなかった。
『やめろ!おたまにひどいことするな!!』
そう大きく吠えようとすると、地面の土が口に入る。
思うように声も出し辛く、ぼくは唸った。
男は振り返り、ぼくを見ながら高らかに笑う。
「あっはっはっは!なんと、憐れな姿よ。首から下を埋められて身動きも取れまい。…しかし、神になる為の儀式なんだ!悪く思わないでくれよ!!」
そう言って、男はおたまをどこかへ連れていってしまった。巣の入り口は、固く閉ざされる。
ぼくは力の限り叫んだ。
『おたま!おたま!おたま!おたま!おたま!…』
けれど、おたまからの返事はなかった。
ぼくはひとり、冷たい地面に埋まった体を動かすこともできずに、昼か夜かも分からない暗い巣の中に取り残された。
ずっと吠え、ぼくの喉は枯れ果てた。
喉が乾き痛んだが、水は飲めない。
酷い空腹に襲われたが、餌はない。
それでも、舌を伸ばし、地面の砂利を舐め飲んだ。
そのうちに、ぼくの目に蠅がたかった。
虫達が近寄り、振り払うこともできないぼくの顔を、好き放題に伝い歩く。
土の中に埋まった体は猛烈に痒くなり、時にジクジクと痛み出し、ぼくに苦痛を与えた。
次第に、体の感覚は消えていった。
視界は霞み出し、景色が見えにくくなる。
しばらくすると、自分から動かなくなった母さんや兄弟と同じ臭いがし始めた。
この時、ぼくは思った。
あぁ、これが『死』というものかー…。
そう、悟り始めた時だった。
大きな音がした。微かな光が目の前に差し込む。
「そろそろ頃合いだろう。」
それは、あの男の声だった。
ドサリッ!!!
少し離れた先に、何かが置かれた。
「ほぅら…、"餌"だぞ。」
"餌"という言葉を聞いて、ぼくは最後の力を振り絞る。
首を力の限り動かしていると、男が近づいてきた。
「そんなに慌てるな。今、切り離してやるから…なっ!」
言葉と共に首に衝撃が走った瞬間、ぼくの体は突然軽くなった。
勢いのままに、離れた先の餌に飛びつく。
大きく噛み付くと、久しぶりの肉の感覚と、口の中に水分が染み渡った。
『美味しい!美味しい!美味しい!美味しい!』
歓喜に震えながら喰っていると、男が大声で笑いながら言った。
「あははは!そんなに"おたま"は美味しいか!!」
もっと喰え!もっと喰え!
男が狂ったように叫んでいる。
『おたま?』
ぼくは、霞む目を精一杯に凝らして餌を見た。
それは、何かのハラワタだった。
そのまま視線を上に向けると、そこにはおたまがいた。
柱に縛られた彼女は、痩せこけ、口から血を吹き出している。
『お…、たま?』
ぼくがそう呟くと、おたまの血に染まった唇が動いた。
「…たす…て、あげられ…くて、ごめんねぇ…。」
おたまの掌が、ぼくの頭をそっと撫でた。
しかし、それは一瞬のことだった。
その手は、つぎの瞬間には、力なく地面に落ちる。
『おたま!おたまぁあああ!!』
もう、その呼びかけに応える声は聞こえない。
おたまの姿を見たのを最後に、僕の意識も暗い底へと遠のいた。
ごめんなさい…。
ごめんなさい……。
ごめんなさい…………。
おたま、たべてごめんなさい………………。
ぼくは、今日も常闇で息をひそめている。
ぼくは、供物なんていらない。
もう、何も食べなくていい。
ただ、おたまに謝りたいんだ。
「大丈夫だよ。」
突然、常闇の中に、優しい声が響いた。
顔を上げると、目の前には人間の少年がいた。
彼が、もう一度ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もう、大丈夫だよ。」
少年は、こちらへ手を差し出した。
幼い顔立ちの中にある透き通るような紫色の瞳は、優しくぼくを包み込むようだった。
でも、ぼくはその手をとれなかった。
『だめだよ。ぼくは、おたまに酷いことをしたんだ。絶対に、許してもらえない。』
すると、少年は、ぼくの頭を撫でた。
「大丈夫。僕が、一緒に謝ってあげるよ。」
その手は、どこまでも優しく、気持ちよかった。
『本当に?』
そう尋ねると、彼は言った。
「本当だよ。だから、一緒に帰ろう。明るい世界へ。」
ぼくは、立ち上がる。
少年は、ぼくを強く抱き締めてくれた。
人間は、どこまでも残酷だ。
でも、人間は、こんなにも温かい。
忘れていた温もりに包まれて、ぼくの胸が温かくなった。
次の瞬間、眩しい光が僕達を包み込んだー………。




