第二十九話
「私、たまっていうの。よろしくね!」
あの日から、毎日女は餌をくれた。
泥に汚れノミだらけだった毛は、丁寧に温かい水で洗って清潔にしてくれた。
雨が降る日は、巣の中へと入れてくれる。そして、次第に晴れている日でも夜には巣へと入れてくれるようになった。
女の近くは、とても温かった。
しかし、周りの人間達は口々に言う。
「"おたま"ったら、そんな犬放っておけばいいのに!」
「"おたま"そんな黒い犬は不吉だ!」
「"おたま"野良犬なんて危ないよ!」
しかし、いつも女は笑って答えた。
「だって可愛いじゃない!艶々の毛並みもとても立派よ。それに、この子はすごく良い子だもの。」
そうして、必ずぼくの頭を撫でてくれた。
すると、次第に周りの人間達も変わっていく。
"おたま"と同じように頭を撫でる者。
"おたま"と同じように餌をくれる者。
"おたま"と同じように笑顔を向けてくれる者。
ぼくの周りは、どんどん温かくなっていった。
そんな日々の中で、ぼくは人間が好きになった。
何よりも、"おたま"が大好きになった。
ある日、おたまの父親が動かなくなった。
ぼくは、いつものように撫でてもらおうとしてその手を舐めるが、代わりに撫でたのはおたまだった。
『どうして、動かないの?』
そう尋ねたくて鼻を鳴らすと、おたまは教えてくれた。
「お父ちゃんはね、死んで天国に行ったの。死んだら、もう撫でられないのよ。」
ごめんね…、とおたまは言った。
ぼくは"死"が理解できなかったが、もう撫でてもらえないということは分かった。
それは、ひどく寂しいと思った。
そうして、おたまはどんどんと元気がなくなっていった。家では窓際に座り、ぼぅっと外を眺めることが多くなった。ぼくがそばへ寄ると、そっと頭を撫でて、語りかけてくれる。
「これで良かったのよ。…信さん。」
ぼくには、分からない言葉が呟かれる。それは、毎日おたまが呟く言葉だった。
そんなある日、おたまは元気いっぱいに帰ってきた。
「クロ!クロ!聞いておくれよ!」
ぼくを見つけるなり、突然抱き締めてくる。
少し、苦しいと思いながらも、おたまを見ると、その顔は今まで見たどの笑顔よりも輝いていた。
「私…、私ね!信さんの奥さんになれるんだって!」
『奥さん』というのは分からなかったけど、とにかくおたまは嬉しいようだ。ぼくも嬉しくなって、鼻先をおたまの着物へ擦り付けた。
「この家からは引っ越すことになるけど、きっと信さんならクロも連れて行って良いと言ってくれるわ!明日、話してみるからね。」
そう言いながら、おたまはぼくを優しく撫でた。
その顔は、とても幸せそうに微笑んでいた。その笑顔を見た瞬間、ぼくはおたまを、出会った人間の中で一番美しいと思った。その時のことを、ぼくは今でもよく覚えている。
その夜は、ぼくもおたまも幸せに眠りについた。
けれど、幸せな明日は永遠に訪れなかった。




