第二十六話
先生は、弓を構えたまま唱えた。
「結 急急如律令」
右足を着物から出し、大きくその場で踏み鳴らす。
ドンっ!!!
すると、足先から半透明な鉛色の影が吹き出し、地面や壁を伝って、幕のように蔵全体を包み込んだ。
「結界を張らせてもらったよ。これでもう逃げられやしない。ここで、お前を逝かせてあげよう。」
先生の長い指先が、弓を大きくしならせる。
しかし、突然、嗄れた怒号が響き渡った。
「だっ!誰だお前は!!俺の邪魔をするなぁっ!!!」
それは、会長だった。先生の方へと駆け出し、握りしめた拳を勢いよく振り下ろす。
「せんせ…っ!!!」
僕が呼ぶ声よりも先に、先生は素早く弓を左肩へ掛けた。空いた右手で会長の手首を掴み、体を捻って後方へ衝撃を受け流す。その勢いのままに、会長は地面へと態勢を崩し、先生に背中でその腕を捻りあげられた。
「ぐっ、がぁあああっ!!!!」
次の瞬間、悲鳴があがる。彼は右肩を押さえながら、その場に蹲った。先生はその様子を見下ろしながら、綺麗に微笑んだ。
「生きた人間は専門外だけど、面倒だから肩の関節を外させて貰ったよ。悪かったね…。」
そう告げた先生は、全く悪びれた様子もなく涼しい顔をして右手をあげた。
「朱雀…、おいで。」
朱雀は大きく蔵の天井を旋回して、先生の右手の指先へと舞い降りる。すると、突然姿を消した。
先生はその指先で、矢の背をゆっくりと撫で上げた。
「六根清浄 急急如律令」
矢は、焔が灯ったかのように赫く煌めく。
そして、真っ直ぐに矢をこちらへと向けた。
「さぁ、今度こそ終わりにしようか。」
その時、僕の耳に小さな声が聞こえた。
『ぉ…かが、す………、ょ…………。』
咄嗟に振り返ると、犬神はこちらへと進めていた歩みを止めて、その場にじっとしていた。
僕は、耳を澄ませる。
『ぉ…たよ……。おなかが、すいたょ………。』
その声は、確かに犬神から聞こえていた。
「先生っ!待ってっ!!」
僕は、堪らずに叫んだ。
先生は、弓を向けたまま怪訝な顔をする。
『おた…、ご…ん……さぃ…、…ま…、…べて、ごめ…………なさ……。』
その声は、僕の頭に直接響いてくるようだった。
「猫吉くん。そこをどきなさい。」
先生の、厳しい声が聞こえた。
「違うの、先生…。犬神が何か言って………っ!」
次の瞬間、その声は、はっきりと聞こえた。
『おたま、たべてごめんなさい。』
僕は、犬神に向かって走り出した。
後ろから、先生の大きな声が聞こえる。
「もどれっ!!穢れに触れてはいけないっ!!!」
僕は、そのまま迷わず腐った体を抱きしめた。
その背中には、呪詛が描かれた札が見えた。
これが、この子を縛り付けているんだ!
僕は、直感で感じた。
その札を剥がそうと引っ張るが、札はびくともせずに、僕の指先はズブズブと沈むように、腐乱した体に取り込まれていく。悪臭が鼻をつき、腐った血肉が全身に纏わりついた。
でも、僕は諦めたくなかった。
「これがっ!なければ!!きっとこの子は…、ただ苦しんでいるだけなんだっ!!!」
泥濘む指先で、札を掴んだ。
河川敷で、先生が燃やした札を思い出す。
剥がれないのならば…!
「燃えろ!燃えろ!」
僕は、難しい呪文なんて知らない。
ただ、ひたすらに祈った。
「燃えろっ!この子を!…犬神を!!」
強く祈りを込め、僕は大きく叫んだ。
「犬神を、解放せよっ!!!」
そう叫んだ瞬間、僕の両目は、焼けるように熱くなった。そして、札ごと僕と犬神の体は、大きな紫色の焔に包み込まれる。
「猫吉くんっ!!!」
遠くに、先生の声が響いた。
僕の体は、そのまま犬神の中へと取り込まれた。




