第二十五話
犬神は、こちらに鼻先を向けると大きく口を開いた。
シャァアアアアアアアッッ!!!!
喉が潰れているような掠れた雄叫びが地鳴りと共に木霊した。混濁した涎を撒き散らしながら、その叫びと共に突風が巻き起こる。
「うっ、ぉえっ……。」
鋭い殺気と憎悪にあてられて、体の震えが止まらない。恐怖と、蔵中に立ち込める腐敗臭のせいで、胃から迫り上がる嘔吐感に襲われた。
犬神は、巨体を揺らしながら、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
ズル…グチャ…ズルズル………。
その体が動くたびに、腐りきった血肉が滴り、床を引きずる音が響き渡る。
僕の自由になった筈の足は、動かなかった。
ここで、死ぬのかー…。
本能が、そう告げる。
しかし、僕の隣で影が動いた。
「来るなっ!化け物ぉおっ!!!」
叫び声につられて隣を見ると、足は縛られたままの信さんが、両手で珠代ちゃんを抱き締めていた。その右掌の肉はえぐれて血が溢れ出し、左手にはまだ麻縄がぶら下がったままだった。
彼は、真っ直ぐに犬神を見据えて叫んだ。
「今度こ…、今度こそ…、彼女を殺させやしない!この命に代えてでも彼女を守るっ!!」
小さな体は、恐怖以上の怒りに震えている。
「し…、信介くんっ……!」
珠代ちゃんも、彼の体を強く抱きしめる。
まるで、互いが、互いを守り合っているようだった。
二人の姿を目にした時、僕の頭の中にも大切な人の顔が浮かんだ。
もう顔も思い出す事ができない優しい両親。
いつも世話を焼いてくれた家族の様な使用人達。
いつだって僕を守ってくれたじいちゃん。
僕には厳しかったけど、じいちゃんを心から愛していた叔母さん。
そしてー…
意地悪だけど、本当は、誰よりも心優しい『先生』
「僕だって!!!」
気がつくと、僕は叫んでいた。
「僕だって、死ねないっ!こんなところじゃ、まだ死ねないんだっ!!だって、僕だって、僕だって…。」
震える膝を、無理矢理立ち上がらせる。
迫り来る犬神を、真っ直ぐに見据えて大きく叫んだ。
「僕だって…、先生のアシスタントだ!!!」
次の瞬間、一際大きな風が舞い込んだ。
突風に耐えきれずに顔を下げると、僕の目の前が突然、深い紅色に埋め尽くされる。
ふわりと香ったのは、柔らかな先生の香りだった。
美しい鳥の羽が、僕の頬と手首を撫でたかと思うと、硬く結ばれた麻縄は魔法のようにするりと解け、音もなく地面へと落ちた。
僕は、ゆっくりと顔を上げる。
目の前にいたのは、朱雀だった。
朱雀は、大きな深紅の翼を広げて僕達を守るかのように、犬神の前へと立ちはだかっている。
「おやおや。うちのどら猫は、世話が焼けるね。」
場にそぐわない、どこまでも穏やかな声が響いた。
その声を聞いた途端、僕の体の強張りが解けて、涙が溢れた。声が聞こえた戸口を、勢いよく振り返る。
「せ、せんせぇ…っ!」
僕は、叫んだ。
涙で滲んだ景色の中に、先生は優雅に弓を構えながら微笑んでいた。




