第二十四話
「珠子を逃したのもお前だろう。全く、どうやって
…。よくも、余計な事をしてくれたな。」
殺気を含んだ低い声が、奥さんに向けられた。
僕は、驚いて顔をそちらに視線を向ける。
彼女は痛む体を必死に起こしながら、会長を睨みつけた。
「あぁ、そうさ。あんな狭い竹籠に入れられて蔵にいたんだ。毛布にくるんで運び、林に逃したよ!あんなに小さい子を攫ってくるなんて…、ましてこんな事までして……。あんた、どうしちまったんだよ!」
奥さんは、叫んだ。
睨む瞳の奥は、赤みをおび潤んでいる。
『もふもふで、ふわふわで……』
珠ちゃんの言っていた言葉が頭を過ぎる。
あれは、どうやら毛布のことを言っていたらしい。
『その言葉をどう捉えるかは、受け取る大人次第だ。』
そう先生が言っていた事を思い出す。
幼い珠ちゃんは、勘違いをしていただけで、ずっと本当のことを言っていたのだ。
「きゃぁああっ!!」
響いた悲鳴に顔を上げると、会長は奥さんの髪を鷲掴みにしていた。
「俺は!どうもしていないさ!!おかしいのは、俺の周りの奴等だろうがっ!!!」
血走った眼が薄暗闇に光って見えた。
「…っ、やめろ!!!」
僕は、叫んだ。
しかし、間に合わなかった。会長は奥さんの頭を髪ごと掴んだまま、地面に力任せに叩きつける。
ガツンッ!
鈍い音が聞こえた。
彼女は、それきり、もう動かなかった。
会長は、その頭から手を離すとゆらりと立ち上がる。
そうして、ふらつきながらこちらへ歩みを進めてきた。その手には、抜け落ちた長い白髪が絡み付き、赤い血が滴っていた。
「俺は…、悪くない。俺は…、悪くない。」
低く呟く声が、静かに繰り返される。
ふらつく体は、すっと僕達を通り過ぎた。
そのまま、蔵の奥へと歩みを進めている。
薄暗闇に目を凝らしてよく見ると、その先には大きな布を掛けられた何かが鎮座していた。
会長の手によって、その布が取り払われる。
それは、大きな神棚だった。
「いぬがみさまぁぁああああっ!!!!」
会長は、叫ぶ。
その両手は、力強く天へと突き出された。
「百貨店などというものに、どんどんと客を奪われ、しまいには商売仲間まで奪われる始末!こちらの方が、歴史が古いというのに!!なんたる屈辱か!!!」
蔵いっぱいに、彼の声が轟く。
それは、魂の叫びのようだった。
「ここに、生贄を差し出します!どうか…、どうか、我が家を…、この商店街をお救い下さい!!」
そして、彼はこちらを振り返った。
掌を組み、天に祈りを捧ぐ。
「いでよっ!!いぬがみぃいいっ!!!」
その瞬間、蔵の中の空気が一変した。
神棚から突如、風が吹き抜け、地鳴りが始まる。
僕達を貫くような様な殺気が、びりびりと肌から伝わった。漆黒の霧が、勢いよく舞い上がる。
僕は、目の前の光景から目が離せなかった。
珠代ちゃんは、恐怖で声も出せないまま信さんに体を寄せる。
「ん…、」
信さんが、ようやく目を開いた。
そして、その瞳は驚愕する。
吐き気がする程の腐敗臭が、蔵を満たし始めた。
それは間違いなく"死"の香りだった。
やがてその霧は、次第にはっきりと姿を成す。
それは、巨大などす黒い塊だった。
澱んだ黒色の毛皮は、腐り果て、ずるずると剥がれ落ちている。そこから、嫌な臭いが立ち込めた。
口の様な裂け目からは、鋭い牙が覗き、混濁した半透明の液体が滴り落ちる。
その上にある筈の場所に目はなく、そこは赤黒い血が滲み出ているだけだ。さらに上にある筈の耳も、ただ腐り落ち、ぶら下がっているだけだった。
「これが…、犬神………?」
僕の声は、掠れて消えた。
腐り果てた巨大な体は、まるで土竜のように見え、どこまでも醜い姿をしていたのだった。




