第二十三話
「なぜ、早くこの商店街から立ち去らなかったの。」
そう呟いたのは、会長の奥さんだった。
その手は、着物の裾を強く握りしめながら震えている。
「これ以上は関わらない方が身の為だと!調べないでくれと、お願いしたのに!」
彼女の瞳は、責める様に僕を睨みつけた。
そうして、そう言うや否や、こちらへ手を伸ばしながら勢いよく近づいて来た。
「ゔゔゔっ!」
珠代ちゃんが怯えた様に呻いた。
僕も、その手から逃れようと必死に身を捩る。
しかし、逃れることは叶わずに、僕の体は簡単にその手に捕まってしまった。
手荒いことをされると思い、ぎゅっと目を瞑る。
しかし、想像していたような衝撃は訪れなかった。
代わりに、僕の口元は突然解放された。口に咬まされていた手拭いが抜き取られたことで、はっと息を大きく吸い込む。勢いよく息を吸ったことにより、僕は思わず咽せてしまった。
息を整えながら、こちらを見下ろす彼女を見上げた。
「どうして、こんなことをしたんですか!?」
僕の声が、蔵の中に響き渡る。
すると、皺のある手が僕の口を覆った。
「馬鹿だね!大きな声を出すんじゃないよっ!」
そう言った彼女の足元には、僕の眼鏡が落ちていた。
いつの間にか、外れてしまっていたらしい。
彼女は口元から手を離すと、僕の足首に括られた麻縄に手をかけ始めた。その行動の意味を理解出来ないまま眺めていると、その麻縄はあっという間に解かれた。
「ほら、早く腕をお出し!」
彼女は、酷く焦っているようだった。
「…どうして、貴女が?」
僕を助けようとしているのかー…?
そう考えた時、僕は異変に気がついた。
あの林で感じた異臭が、今日の彼女からはしないのだ。
固く縛られた麻縄を解いたせいで、彼女の爪は割れて血が滲んでいた。その指先が、僕の手首の麻縄を触れようとした時だった。
戸口から、カタン…と音がする。
その瞬間、彼女の顔は青ざめ恐怖に染まった。
「…そこまでだ。」
嗄れた男の声が響く。
戸口を見やると、その男の姿が逆光の中にはっきりと浮かぶ。
「もう、やめるんだ。それ以上そんなことをしようとするなら、俺はお前でも許さない。」
そう言い放ったのは、会長さんだった。
いつもは優しい眼鏡の奥の瞳が、厳しくこちらを見つめている。彼は、こちらに近づいてくると奥さんの肩にそっと掌を置いた。
次の瞬間、その体を勢いよく横へ突き飛ばす。
ドンッ!!!
奥さんの小柄な体は、蔵の壁に叩きつけられる。
彼女は悲鳴もあげられないまま、地面に崩れ落ちた。
僕は、間近で見たその姿に声を出せずにいた。
「これ以上…、俺の邪魔は、誰にもさせない………。」
そう呟いた唇が、歪んで醜い微笑みを作る。
林の時に感じたものとは比べ物にならない程の異臭が、痛いほどに僕の鼻を刺激した。
そして、見上げた先にいる彼の体は、まるで焦げ付いているかの様に、どす黒い靄に覆われていたのだった。




