第二十話
未だやまない雨音が、部屋中を満たしていた。
二人きりの空間で、幼い男の子から語られる遥か昔の物語に耳を傾け続けた。けれど、その口調は、信介くんのものではなく"信さん"のものだった。
彼は、手にしている櫛をゆっくりと撫でる。
「君は、櫛を贈る意味を知っているか?」
不意に尋ねられて、僕は顔をあげた。
視線が絡むと、そっと微笑まれる。
「流行りの洒落だったんだ。'櫛'と"苦死"をかけてね。幸せな時も苦しい時も、共に寄り添いながら生きていこう…なんていうね………。」
小さな手が、櫛を強く握りしめる。
震える声を誤魔化すかのように、その瞳は伏せられた。そして、息を大きく吸った後に彼は言った。
「彼女は、私を覚えてはいない。…そして、私も、もうすぐ消える。」
僕は、その言葉に息を呑んだ。
彼は、雨音が響く中で、ただ静かに言葉を紡ぐ。
「新たに生を受け'信介'として生きてきたこの五年、体が成長すればする程、"私"の記憶と感情は薄れていく一方だ。きっと、これが自然の理なのだろう。私は、まもなく消えてなくなり、ただの"信介"として生きていくのだろうな…。」
そう語る彼は、どこか遠くを見つめていた。
まだ幼い顔の中で、その瞳だけは紛れもなく大人のものだった。その唇は、迷いなく動いた。
「だが、それで良いのだと思う。おたまさんは、辛い過去など思い出さなくて良い。こんな未練ばかりの情けない男のことなど、思い出さなくて良いのだ。」
その声は、もう震えてはいない。
「猫吉殿」
名前を呼ばれて、僕がその瞳を見つめ返すと、彼も真っ直ぐに見つめ返してくれる。
そうして、彼は笑顔で言った。
「消える前に、この子の中で眠っていた私を見つけてくれてありがとう。」
その瞬間、彼の笑顔は太陽のように見えた。
僕は、ツンと痛む鼻を堪えながら拳を握った。
ただ、ひたすらに頷くことしか出来なかった。
どのくらい時が経っただろうか。
僕は、文楽人形を風呂敷に包み直して立ち上がる。
彼は、玄関先まで見送りに出てくれた。
櫛を返そうとする彼の手を、僕はそっと押し戻した。
「その櫛は、お返しします。きっと…、貴方が持っていた方が良いと思うんです。」
そう言うと、彼は困った様に眉を下げた。
「しかし…、」
その時、まだ誰も触れていない玄関の戸が、勢い良く開け放たれた。
「ごめんくださいっ!」
大きな声に驚いて振り返ると、そこには見覚えのある男性が立っていた。
「…簪屋さん?」
信介くんが、小さく呟く。
それは、簪屋さんの旦那だった。酷く慌てた様子で、その体は雨に濡れていた。
彼は、肩で息をしながら言った。
「珠は…!ここに、珠代は来ていませんか!?」
途端に、嫌な胸騒ぎが襲いかかる。
僕と信介くんは、互いに顔を見合わせた。
あけましておめでとうございます。
昨年度中に二章を完結させられずに、今年に持ち越してしまい不甲斐ないです。変わらずに読みに来て下さり、ありがとうございます!
この物語を見つけてくれたあなたにとって、より良い一年となりますように。
評価や感想が頂けると、とても嬉しいです。
今年も宜しくお願い致します。 一色




